市川雷蔵追慕

市川雷蔵氏は、まさに役者であった。俳優とか演技者と呼ぶには似合わない人であった。

では、役者とはなにか。

これは、わが独断と偏見であるが、しばしば役者とは、役割に没入していく人のようにとらえられがちだが、実はそうではなく、没入一寸手前で、わが分身を冷静に眺めている人だと思う。その中の感情を真っ二つに割って、Aはあくまでも自分自身の感情であり、Bは演じる役割の中に静に注入していくのである。単に感情移入をしていくのではなく、自分の中に、常に、相対比する感情を用意して、もう一人の自分を醒めた目で眺めているものだと思う。

そういう意味で、市川雷蔵氏は役者そのものであったといえる。

クールといわれる所以はそこにあるのだろう。犯罪にたとえて悪いが、もし、市川雷蔵氏が犯罪者になったなら、殺人、傷害、恐喝、強盗といった激情犯ではなく、詐欺、それもベテランの確信犯であった思う。感情を抑制して、緻密な計画をたてて、目標を定めたなら、間違いなく成功するというタイプであろうと思う。

眠狂四郎シリーズにしても『炎上』の青年僧にしても、この緻密な計算をもった距離を保っているところに成功の因があると思う。

生前の市川雷蔵氏と数回会った。撮影所で偶然に会ってお茶を飲んだこともあれば、じっくり二人で映画論を話し合ったこともある。当時、勝新太郎氏と故・田宮次郎氏のシリーズを執筆していたので、市川氏とは純な立場で話し合えた。

「一人でいたい時があります。しかし、いざ、一人でいると無性に人に会いたくなって、人間というものは、淋しいものだと思う」

話の中で、こういう言葉が出た。そしてまた、なぜか、人を信じられない悲しさがあるという言葉も出た。

同い年のこちらには、この意味がよくわかった。時代の流れの中で、われわれ世代は、偽善の中で少年、青年期を過した。ものの価値、思想がすべて目の前で逆転したためである。少年の胸の中で、崩壊があったためだ。

市川雷蔵氏は、この悲劇を自分の中に組み敷き、その精神の軸に据えた役者であった。

円月殺法の凄味は、その精神土壌を刃の先に凝結した結果であろうと思うのである。

昭和一ケタがいやでもくぐり抜けねばならなった時代が市川雷蔵演技を決定したのであった。

この市川雷蔵氏主演で、やっと脚本を書くことになった。シナリオは出来上り、話は順調にすすむと思った矢先、市川氏は病に倒れ、不帰の人となった。

シナリオは、ハムレットの日本版というべきものであった。

市川雷蔵氏をおいて、他にこの役は考えられなかった。

そのシナリオも、どこかに消えてしまったのである。

あれから十三年の歳月が流れた。

が、わが脳裏には、鮮烈に市川雷蔵氏は焼き付いている。(眠狂四郎 市川雷蔵・魅力のすべてより)