ある母の歴史はここに終った

役者二代を育てて、雷蔵の養母は死んだ

一月三日、この世を去った市川らくさん・・・この人こそ、寿海を舞台で、雷蔵を銀幕で花咲かせた陰のささえであった・・・。

「母は天寿をまっとうした」と語る悲しみの雷蔵氏

 「あと五年、生きていてくれたら金婚式でした。雷蔵も結婚して、初孫の顔をみせてくれたでしょうに・・・」と、市川寿海は涙ぐむ。

・・・らく夫人が亡くなったのは正月三日の朝。寿海が歌舞伎座へでかけた直後であった。「行ってくるよ」病床に声をかけると、「おはようさん、行ってらっしゃい」と笑った。はればれとした笑顔だった。「ぐあいは、どうだい?」「ええ、もう大丈夫」

・・・昨夜までは、吸い飲みの水も苦しくてノドを通らなかったのだが、今朝は元気そうだった。寿海は安心した。病気が峠をこしたのだろうと思った。

・・・夫を送りだすと、夫人は目をとじた。そしてそのまま、しずかに呼吸がとまった。そばについていたものも気づかなかったほど、やすらかな臨終であった・・・。午前十時四十五分。

・・・暮れの二十七日。京都・伏見の自宅から上京したとき、医者にいわれた。「無理をすると、命とりになりますよ」

 病は、すでに重かった。つきそいのものに、両側からささえてもらわなくては、汽車にものれない。心臓が弱っていた。十歩もあるくと、はげしく息ぎれがした。だが、らく夫人はどうしても東京へ行くという。「どうせ死ぬんあら、夫のそばで死にたい」

・・・死期をさとっていたのかもしれない。

 宿舎の牛込神楽坂の丸島徳三郎さん(夫人の従兄)の家におちつくと、さっそく、ごひいきさんへのあいさつ、舞台衣装のしたくなどを、キチンとすませた。

 そして、初日の正月二日。玄関で火打ち石を切って、夫をおくりだしてから、たおれた。梨園の名花とうたわれた夫人の死は、その生涯にふさわしく、みごとであった。