大映俳優総論

                                 滝沢 一

 

 長谷川一夫のようなひとは、「観客に満足していただける作品」だけを常に考えて今日の地位を築きあげてきたひとだ。だから氏のよき演技者たらんとする欲求も「より観客に満足していただける」方向にひたすら掘り下げられていった。会社の指向するものと自分の欲求するものとの間に、比較的矛盾のなかったひとであり、その点では恵まれた環境にあったひとである。ただこの人の場合、それだけに自分の演技に対する観客の反応というものをひどく神経質に考える一面がある。映画では観客の入りだけしかそれを測定するデータがない。だから作品の入りが悪いとたいへんそのことを気にするタチだ。それというのも長谷川一夫というスターの人気だけを中心にものを考えているからである。

 この考え方は自分の職業意識に徹しているという情味では立派である。だからこそ三十年という長いあいだトップスターとしての地位を守りつづけてこられたのであろう。そして最近では直接観客の反応を自分の肉体にジカに受けとられる舞台への魅力にとりつかれているようだ。東宝カブキがそれであり、舞踊劇『春夏秋冬』など自ら構成し、演出までする熱の入れ方だ。私なんかはこのひとの長い演技歴のなかで、演技者としての実力を示したものが『近松物語』一本であることを非常に淋しいと思うが御当人はそれ程深刻には考えていないのかもしれない。いずれにせよこのひとはスターとしても演技者としてもすでに完成されたひとである。

 これが市川雷蔵級の若手になると、そうはゆかない。長谷川の場合は氏がスターとなった道行が、たまたま映画が婦女子の娯楽として、既存のカブキやその他の娯楽物を圧倒していった時期と呼応していた。今は映画に単なる婦女子の娯楽以上のものが求められている時代であり、観客層の巾もひろがっておれば、映画そのものの質も昔とは比べものにならないほど進歩している。

 今日の若手スターには先天的な美貌以上の確実な演技力が要求されるし、また彼ら自身でも単なる婦女子の娯楽としての映画のみに、自分の肉体をサラし物にすることにあきたらない気持が生じている。若いスターが、一様にスターの地位にいつまでも甘えておれないという感じを持っているのは、当人の自覚もさることながら、やはり一つには時代のせいでもあろう。長谷川、千恵蔵、右太衛門なんかがそれぞれ三十年をこえるスターとしてその地位を守りつづけているということは、過去のよき時代における人気の蓄積というものが大きくものをいっている。今日のスターの人気は、もっと移ろいやすい性質をもっているのである。

 市川雷蔵は、まだ自分の演技の鉱脈を掘り当てていない。『新・平家物語』の第一部は清盛の実直な性格を巧く出していたが、清盛のヴァイタリティの表現に欠けていた。線が細いといわれるこのひとの宿命は、何も雷蔵に限ったことではなく、大方の二枚目に共通するものであるから、逆に二枚目としての線の細さを生かすような役柄を押すべきであろう。

 殊にこのひとのユーモラスな人柄が活用されるような題材を求めるべきである。『又四郎喧嘩旅』や『喧嘩鴛鴦』にはこのひとの持味のよさが出ていた。若き日の千恵蔵のおもかげがこのひとにはある。また明るいキャラクターの反面には近代の陰湿な暗さを表現する適性も備えているようである。『朱雀門』はきれい事すぎ、雷蔵のこの一面はまだ発見されていない。

 勝新太郎は雷蔵以上に売り出しそこねた。『不知火奉行』で割合すっきりとした二枚目になっていた以外は、これという印象に残る作品がない。ただ、『大阪物語』のやや三枚目がかった道楽息子の役には味があった。
 夏目俊二が『新・平家物語』で演じた上皇役は、まことに新鮮なデビュー振りで、われわれの眼をみはらせたが、このひとには案外に芸の振幅がすくないのではないか。ワキ役としてこじんまりとまとまってしまいそうな危険性がある。『お化け駕籠』の若旦那、『朱雀門』の天皇役がよかったが、すこし器用貧乏の感がしないでもない。

 林成年は育ちのよさがかえって演技のジャマになっている。体当りで役にぶつかってゆく根性のようなものがほしい。

 ワキ役には一言にいって貧困である。ずい分古い顔にもお目にかかるが、人間のアカを感じさせるような演技にぶつかることがすくなくない。これではいつも重要なワキの役処を新劇人や外部からの出演者で占められても仕方がないと思われる。

 『夜の河』の流れ職人にふんした伊達三郎など、かって稲垣浩がよく使っていたが、最近の時代劇ではほとんど生かされていない。そしてこの伊達三郎にしても石原須磨男にしても、『夜の河』でのみその役の体臭を感じさせるような演技をしていたのも皮肉である。

 ここでは中村鴈治郎に注目したい。『大阪物語』での好演は、このカブキの大名題がすっかり映画演技の流れにとけこんでいた点で私を驚かせた。カブキファンにという狭く限られた人気に頼るような甘ったれた考えをすてて、更めて演技者としての自分の実力を験してみようとするこのひとの覚悟がこの好演を稔らせたのだと思う。

 時代劇では有数のベテランである黒川弥太郎の沈黙も淋しい。堂々たるマスクをもちながら、芸にフレキシビリティがなく一本調子であるのが欠点なのだが、いつも決りきった役柄しか与えられないところにもマンネリ化の原因がありそうだ。

 千葉登四男はもうここでは中堅クラスなのだろうが、いいマスクをしている。いつも悪役ばかりで気の毒だが、その演技に真剣さが感じられるのがよい。