兄貴!!と呼びかけたい人間味

 映画の宣伝マンにとって、映画が商品であるかぎり、俳優さんはその商品に一部品にすぎない。そんな意識があるせいか、俳優さんと宣伝マンとの間には、一般に、生臭い人間的な交流は観られない。表面的にはともかく、心の底を割ってみれば、お互いにとぎすまされた職業意識がよどんでいる。

 私の知るかぎりでは、たった一つの例外が雷蔵さんの場合である。雷蔵さんは、私たち宣伝マンが習慣的に身にまとった非人間的な儀礼のカラを平気でぶち破って、これより先俳優さん立入禁止の領域に遠慮エシャクもなくふみこんで来る。裏も表も、虚礼も打算もあったものではない。やがては自分から進んで心を開かずにはいられない。この不思議な魅力は、とても言葉ではつくせない。うわべだけのツキアイでは、とうてい理解できないものなのだ。

 雷蔵さんが、橋幸夫や大鵬など、若い人に好かれる理由もそこにある。兄貴として甘えてみたくなる信頼感がそのきある。あの暴れん坊のジェリー藤尾でさえ、雷蔵さんの前では人が変ったようにおとなしくなって甘えている。

 マスコミの間でなされている雷蔵さんの評価は、徹底した現代青年というのだが、私はそうは思われない。若い人気者に好かれ、彼等を可愛がるこの時代劇の貴公子には、現代青年という言葉のニュアンスからかけ離れた古風な親分肌が感じられる。弟分の本郷功次郎を叱り、橋幸夫をたしなめる雷蔵さんは、親分という言葉がぴったりの貫禄だ。

 だが、そこに一抹の不安である。

 雷蔵さんが、ヒマさえあれば現代を呼吸しに上京するということと、若い人を可愛がるということは、同一の目的でつながっているはずである。しかし後者には雷蔵さんを老成に追いやる危険性が多分にある。私自身、雷蔵さんから一方的に学び取ってしまうばかりである。まして芸能界の若い後輩にとって、雷蔵さんは一つの大きな目標だ。学び、学ばれる交流が一方的になっては困る。私が雷蔵さんにのぞみたいこと、それは若い人からいい意味の現代を吸収して、いつまでも若い兄貴であってほしいというこだ。

(よ志哉23号より)