良き指導者を得て

 このつくし会は、やがて、松竹が外部から招いた若き演劇評論家武智鉄二氏の指導する新しい歌舞伎の実験劇場へと発展して行った。後に武智歌舞伎と呼ばれるようになったこの武智氏のきびしい愛の鞭の下に、後年の市川雷蔵となるべき素質をグングン伸ばしはじめたのである。

 武智氏はそうした莚蔵を見るにつけ心の痛んだのは彼が家柄のない九団次の子であるが為に、封建的な歌舞伎社会では、いかに演技や素質にすぐれても、将来良い役に当らぬようになることは、火を見るよりも明らかだったことである。それを救うには、莚蔵を誰か名門の俳優の養子にするより他はなかったのだが間もなく関西随一の大立者市川寿海の養子になったについて、その裏面に武智氏の力が大きく働いていたことは否めない。九団次夫妻がむつきの時から手塩にかけて、やっと一人前に成人した一人息子の嘉男を、今になって手離すその辛さは想像に余りあるものがあったが、結局そうすることが我子の将来を本当に幸福にすることだと思い至った両親は思い切って、寿海の許へ養子にやることを決意したのである。

 嘉男がこれまで実の両親と信じ切っていた九団次夫妻も、本当は養父母だったという驚くべき事実を知ったのは、実にこのときであった。彼は今更ながら養父母の愛の深さに感謝し泣いてこれまでの我ままをわびた。そして、彼もまた離れたくない気持ちに襲われたが、わずか十七、八で何も出来ない現在、最上の親孝行はまず立派な俳優になることだと心を固めて、寿海の許へ養子となって行った。

 かくて八代目市川雷蔵がここに誕生するに至ったのである。

新しき芸道の道に

 一年、二年が矢のように過ぎ去った。その間時代の波は大きく動いてこれまで雷蔵の仲間だった鯉昇が、北上弥太郎として、更に中村扇雀が坂東鶴之助が、相ついで歌舞伎から銀幕へ移って行った。たった一人取り残された感じの雷蔵の心中にも、こうした時勢の波に乗り遅れる焦燥が徐々に巣食いはじめたのである。

 丁度そんな頃、大映から下検分のような話が持ち上がったが、この時は直ちに具体化しなかったが、そのうち、他の二三の映画会社からも勧誘の手が延びてくるようになって来た。彼は今こそ決断の時だと思った。川の支流から本流に乗る絶好の機会だと思った。だが、このことは、死ぬような苦しい思いで、やっと彼を手離した前の養父母九団次夫妻の意思をふみにじるわけであり、現在の両親寿海夫妻もいい顔をする筈はないと思われた。もとより自分が映画界で成功するかどうかはわからない。だが、やる以上は、中途半端でやめるのではなく、成功するまでやりたいと彼は思った。

 乗るか反るか、人生の岐路に立って、若い雷蔵もいたく悩んだ。その結果、まず当って砕けろの意気で自ら大映の本社へ乗り込んで。折柄上京中の酒井京都撮影所長に逢って、自分を起用する意思の有無を単刀直入に問いただした。こすいて映画入りの話は急にまとまった。彼にとって次の仕事は二組の両親の許しを得ることだった。この件に関して、九団次夫妻は寿海に遠慮してか、はっきりした発言をしなかったが、果然寿海夫妻の猛反対に逢った。殊に母親の反対が強かった。

 だが、父の方は関西歌舞伎の一代表者として容易に我が子を映画界へ出せない立場にあったのだが、若い時のことでもあり、本人のやりたいことをやらせるのも、永い芸道修練の一つとして、芸の幅を拡げるのに役立つものならやらせてみてもいいという気持を秘めていたのだった。そして最後には、雷蔵の情熱の籠った説得は遂に効を奏するに至り、「花の白虎隊」を手始めとして洋々たる映画界へのスタートを切ることになったのである。

 彼は現在の身の上をこう語っている。
「私は近代に生を受けた青年だから、もとより迷信的なものを信ずる者ではない。しかし、ことひとたび、自分のこれまで生い立ってきた経路に考えを及す時、そこに人力では計り知ることの出来ない、大きな運命の糸に操られてきたと考えないでは居られない」

 しかし、運命の力もさることながら、彼の当り役だった「新・平家物語」、主人公の青年清盛が叫ぶ「運とは待つものではない、俺のこの手で掴み取るのだ」という雄々たるセリフがそのままに、彼市川雷蔵の生き方をいみじくも象徴しているのではなかろうか。(「映画ファン」56年10月号より)