映画に誠意を尽くした孤高の剣士

『市川雷蔵』

7月17日で没後25年目を迎える市川雷蔵には、亀崎嘉男と太田吉哉、三代目市川莚蔵と七代目市川雷蔵という、二つの本名と二つの芸名があった。

幼少時期を彼は、名門であることがすべての歌舞伎界で育った。養父市川九団次に育てられた雷象の子供時代、遊び友だちは梨園の子供たちばかり。彼らは相撲をとっても、家格の上の子に勝ちを譲る。負ければ、ごほうびを貰えることもあったからだ。しかし、雷蔵は「ボクは飴なんか欲しゅうない」といって、わざと負けたりはしなかった。雷蔵の反骨精神は、子供の頃から強かったといえる。

後に彼は、1951年に関西歌舞伎の長老市川寿海と養子縁組をする。その背景には、息子の将来を考える養父の思いやりがあったようだ。とはいっても、兄弟もなく、孤独に育った雷蔵には、頼みにできるのは自分だけしかいない。不遇の続いた彼は歌舞伎界の元締め大谷竹次郎会長と衝突。待遇に不満をのべた雷蔵は、「修行中の身でありながら、けしからん」と叱られ、それならと歌舞伎界と訣別。この結果、54年に彼の映画界入りが実現する。

大映に入社した雷蔵は、プログラム・ピクチャー量産機構に組み込まれた。やがて、大映の看板スター、長谷川一夫に迫る時代劇スターとして頭角を現していく。四年後の58年には年間最多の16作品に出演。この年の終わりまでに総出演作品は52本にものぼった。

この頃、彼は後援会誌「よ志哉」に寄稿したエッセーの中で、「これまで撮ってきた50本の作品の中で(中略)厳密な意味で世間に認められたものといえば『新・平家物語』と『炎上』の二本」と書き記している。

前者は入社の翌年、溝口健二監督に大抜擢されて出演、映画俳優市川雷蔵の存在が初めて認められた作品であり、後者は市川崑監督と組み、彼が初めて現代劇に取り組んだ作品だった。そして、この『炎上』は、雷蔵の人となりを知るにはいい作品である。

大映の永田雅一社長は、この企画に猛反対した。売り出し中の美男スター、雷蔵に犯罪少年を演じさせることで、彼の人気に影響が出ることを危惧したのである。が、雷蔵が強く映画化を主張したため、永田は仕方なく了承。とはいっても、予算は独立プロ並みに少なかった。

雷蔵はこの作品に賭けた。完成後、自腹をきって京都と東京を往復し宣伝に尽力。この『炎上』の主人公は、彼自身とダブる部分があるという。戦時中、「役者の子」といじめられ、劣等感にさいなまれた中学時代の雷蔵自身とダブるということだ。雷蔵はこの作品でブルーリボン賞とキネマ旬報の男優主演賞に輝き、ベネチア国際映画祭で最優秀演技賞までも獲得してしまう。

監督とプロデュース。このふたつは俳優・雷蔵にとっての夢だった。そのひとつ、プロデューサー的手腕を『炎上』で発揮した彼は、その後も『ぼんち』『忠直卿行状記』『好色一代男』『破戒』『華岡清洲の妻』の映画化を提案、実現させた。

むろん、雷蔵は、演技者としても非凡な人であり、誠実な人でもあった、自分が演じた役に責任を感じていた彼は、浅沼稲次郎社会党委員長が右翼青年・山口二矢に刺殺されたとき、テレビでその瞬間を見て、「刺す時の姿勢なり態度なりが、いかにも時代劇の型をそのまま見せつけられたような気がした。(中略)悪い奴は殺してしまえばいい(中略)、そういった時代劇を作るときの態度について大いに反省してみなければならない」と「よ志哉」に記していた。

一方で、安易なシリーズ作りに対しても抵抗。『新・忍びの者』が企画されると、前作『続・忍びの者』で死んだ主人公の石川五右衛門が、もう一度登場するのは不合理きわまりないと反対するなど、雷蔵はつねに映画と誠実に向い合った人だった。

その雷蔵は69年、増村保造監督『千羽鶴』の衣装調べを最後に、大映京都撮影所に二度と姿を現さなかった。

享年37。彼は、生涯に158本の映画に出演した。

「切実に一日一日を悔いなく生きてゆきたい。(中略)私自身の寿命がどのへんにあるのか、これは神様以外にはまったくわからないからです」(「よ志哉」から)(アサヒグラフ94年7月22日号より)