上とのパイプ役でもあった雷蔵さん

細かい話ですが、僕がデビューした頃の給料が六千四百円。夜間手当を入れて九千円。今から(1974年)十四、五年前になりますか。到底、食えっこない。「講道館に陽が昇る」でデビュー、三本めに「濡れ髪三度笠」(田中徳三監督)で雷蔵さんと初共演できた。

実は、これがキッカケで、僕は、雷蔵さんのお宅に“居候”をしたんですよ。雷蔵さんが「お金がかからないからウチへ来い。衣食住タダだぞ」そういってくれまして、ご厄介になったわけで。そのころ“カルマン・ギアー”を、当時の日本でも十四台しかなかったこの車を、ポンと二百三十五万出して、買ってくれた。

出世払いということで、七、八年して(金を)返しました。当時の僕といえば、海のものとも山のものともつかずの、一学生でしたからね。それに、一度も催促をうけなかったですよ。

雷蔵さんの実家というのは、京都の鳴滝にあって、たしか二階は二十畳くらいの、とにかく広い部屋でありましてね。なにしろ、寝食がいっしょでしょ。奥さんに本気で惚れていて、家から「アイ・ラブ・ユー」で一時間も二時間も電話をかけるんですわ。それまでおそらく人を愛したことのない雷蔵さんが毎日、毎日、顔をほころばせては、奥さんに電話をかける。こっちは「いい加減にしろ!」(笑)

あの人(感慨深げに)は、俳優がもちあわせていなければならない、多面性をもった人でしたね。陰もあれば陽もある。それと、演技イコールセリフという持論をもっておりました。

僕が初舞台にたったとき、雷蔵さんは「とにかくセリフだけは覚えろ。体がついてくるから」そうアドバイスをしていただいた。芝居に何が大切か、同じようなことを勝さんに聞いたら、雷蔵さんと全く逆に「セリフは覚えなくていい。役をのみこめば、セリフはおのずから出てくる」こう言うんです。実は、両方とも正しいんですね。演技者として基礎的なことを一つのパターンにとじこもることなく、自在にこなすよう、雷蔵さんから教えていただいた。

ま、生きつづけていたら、どこまで可能性を伸ばせていたか、撮影所の一つや二つは作っていたんじゃないですか。天才的な演技者であると同時に、企画力、実行力もある。本人はくやしくて仕様がないと思いますね。三十七歳、これからなのに。僕は、本当に、迷惑のかけっぱなしで、死ぬなんて想像もしておらなかった。

あの人が生きていたら、会社(大映)はつぶれていないよ。われわれと上層部とのパイプ役だったし、現に、亡くなられて、それは断絶した。心のつながりだけが、今もなお、雷蔵さんとわれわれを結びつけている。(「ミノルフォンレコード・日本映画名優シリーズ市川雷蔵魅力集大成」より)