雷蔵とわたし

しあわせな顔ばかりならんでいる。

当世のことだから致し方ないとおもいはするが、なんとなく得心がいかない。あまりに不しあわせなかげりのみじんもない顔ばかり見ていると、うすきみわるくさえなってくる。−昨今の人気役者とよばれるひとたちの表情である。

「役者がいなくなった」

そういわれるようになってからずいぶんと久しいのに、有望とおもわれた役者たちは、たちまちテレビドラマやら、わけのわからない映画作りの毒を浴びて、才能をすりへらすか、恵まれた天分を弄んで、早急に滅んでいく。なんとも痛ましいかぎりだ。

そうした状態のなかにあって、幸か不幸か、ビデオというものが発達普及して、世に残った作品がたやすく観られるようになった。

そこでいま、「市川雷蔵という役者」がふたたび浮びあがってきて、その復活現象が若いひとのあいだで現われはじめたのだと仄聞していうる。

なぜなのだろう。

いうに及ばぬことながら、雷蔵の顔に漂うあの不幸の翳(かげり)、はかなげな微笑、うかがいしれぬ不しあわせに耐えているところからくる気品、−まぎれもなくそうしたものが、当世の若いひと、とくに女性を惹きつける理由であるにちがいない。

生きているうちは、あまりそうしたことにおもい至りはしなかったのに、世を去って二十年あまりになるいま、わたしはそんなことをおもってみる。

けれども、わたしの知るかぎりの市川雷蔵は、生きて世に在ったころ、けっして不しあわせな翳を漂わせるような日常ではなかった。むしろ明るく、軽やかで、饒舌や浮名をさえ好むような人柄だった。

それだのに、それがひとたび映画の画面に立ちあらわれると、いいようのない寂寥感を総身にみなぎらせ、その微笑は、ときとして観るひとの心をすくませる瞬間がある。それは、雷蔵というひと、すなわち太田吉哉というひとが、奥深く秘めていた心に根ざすものであろうかと、目をみはることしばしばであったのを覚えている。

昨今しみじみ感じていることだけれど、「あまりの幸福は日本人には似合わない」すくなくとも芸能の世界では。

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不しあわせの美しさ、- それを無意識のうちに懐かしがる心もち、それを具現する役者が、いまはいなくなった。どこをさがしても見当らない。そこで過去をたどることになる。そして、若くして惜しまれつつ世を去った市川雷蔵という存在に行き当る。

三十七年のいのちだった。短いといえば、そうもいえようが、そのことにさしたる感慨は、わたしにはない。戦前に天才と謳われた映画監督山中貞雄は、二十八年のいのちであったのだ。いのちの長さで仕事は計れない。ものを創る天分は、最初からそれと知れるものだ。燃えて燃えて、よしんばその火が途なかばで消えようとも、それはそれでよいではないか。ちかごろ、そうおもえるように、わたしはなった。

雷蔵とは、短かったけれど、深い付合いだった。わたしの京都での初仕事で、不意に立ちあらわれたひとが市川雷蔵だったことは、すでにいろいろなところで語ったから、ここではくりかえさないことにするが、あのひとにめぐりあったのが、わたしの幸運になった。

ほんの少し経緯を付け加えるとすれば、わたしが京都に招かれて、はじめて書いた時代映画が、計らずも、あらかじめの定めとちがって、市川雷蔵主演ということになり、その出発点から始まって、市川雷蔵、三隅研次、そしてわたし、という組合わせの仕事が数年、たてつづけに烈しくつづいた。

映画の仕事の命運がそう長いことではあるまい、ということを雷蔵は、知っていたようにおもう。しばしばそういう話をし、さて、それからの志をもともどもに語った。私生活もあからさまに語った。

いまさらながらにおもい起すと、雷蔵というひとはふしぎな役者だった。「破戒」の丑松や、「金閣寺」で、悲痛な人物を、雷蔵のほかにいないと見えるほどに演じたかとおもえば、一転して、「ぼんち」の道楽息子の和事(わごと)をさわやかにやってのけ、かとおもうと、「陸軍中野学校」もあり、「沓掛時次郎」もあり、さらに「忍びの者」も、「眠狂四郎」もある。

「眠狂四郎」はさておいて、わたしがいちばん好もしくおもえた役は、「破戒」の丑松であり、「ぼんち」の道楽息子であった。「破戒」はだれもがうなずく雷蔵の適り役であるし、「ぼんち」はそれと双極にあって、雷蔵の微笑とユーモアを代表する。わたしは作品のうえでは微笑とユーモアを雷蔵とともにはできなかったから、「ぼんち」のそれはことさらに、あの常日ごろ、仕事のそとで、雷蔵とわたし、ときには三隅研次を加えて、ともにすごした私生活で、ちらとのぞかした皮肉たっぷりの声や、いいようのない寂しい微笑の閑談のひとときをよびさまして、そぞろに懐かしい。

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あの死から、二十年あまりが過ぎてしまったとは、信じ難いことだけれど、作品だけは世に残った。あの微笑とはいつでも会える。雷蔵と三隅、そしてわたし、−三人が三人、おなじようなのぞみの夢追い人であったわたしたちの仕事は、とうとう本格とならぬうちに、雷蔵、つぎは三隅が、いのちを失って、それでおわりになった。それはそれでよいではないか。ともにそれまえの仕事で燃えたのだもの。

美しいものが美しいままで世を去っていった。

それでよいのではないか。そうおもって、いまは、せめてときどきは、はかなくはあるけれど世に残った作品の写し絵のなかで出逢って、わが友のひとりであった雷蔵を偲ぶよすがとしよう。(「日本経済新聞」3/31/91より)