雷ちゃんの死は将に晴天の霹靂だった。祇園祭で賑わう七月十七日の朝、僕はかけがえのない友を失った。受話器を置いたあと唯茫然とスタッフルームの椅子に座り、撮影開始の放送も他人事のように虚しかった。撮影を放り出して雷ちゃんの枕辺に飛んでゆきたい衝動を押さえるのが辛かった。雷ちゃんは立派な役者だった。あれだけの役者はそうザラには出て来まい。大映だけでなく日本映画界にとって彼の死は大きな損失だと思う。しかし僕にとって、それ以上に悲しい事は、雷ちゃんのような心からの友は、もう得られまいということだ。

 昭和三十三年、市川崑作品「炎上」は僕と雷ちゃんを結びつけた。美しいものに異常な執念を燃す溝口吾市という青年僧を演ずる彼は当時時代劇スターとして一流の域に達していたとはいえ現代劇の、然も坊主頭の吃りの青年役と意欲的に取組んではいたものの不安と悩みは隠せない様子だった。セカンド助監督の僕は、そうした雷ちゃんを見て解決の一助にでもなればと勝手な意見を述べよく討論しあった。それまで殆ど喋ったこともない彼との仲であったが、後日雷ちゃんの後援会の機関誌「よ志哉」に原稿を依頼された際、僕は書き出しにこう書いた。「炎上--という映画で私は二人の人を知りました。一人は私の生涯の師となり一人は私の生涯の友となりました。前者は市川崑氏、後者は市川雷蔵君です」

 三十五年十一月、僕に監督の機会がめぐってきた。「薔薇大名」という作品で当時SPといわれた短篇もので二線級のスターで作る併映作の喜劇だった。雷ちゃんは、どうしても出してくれといい、自分で会社に交渉して二シーンだけ出る旅人の役で出てくれた。どうせ出てくれるなら既成の雷ちゃんと違うイメージで出てくれと、僕はわがままをいって、嫌がる雷ちゃんに、当時流行していた守屋浩の「僕は泣いちっち」という歌を劇中で歌ってもらった。あの音痴な雷ちゃんの歌声が今も耳に残る。

 翌三十六年、フィーチャーを撮る機会がきた。雷ちゃん主演の「沓掛時次郎」である。これにはいろいろないきさつがあった。しかしここには書かないことにする。ただラストの構成を既成のものと変えた。その点で僕と雷ちゃんの意見は完全に一致していた。本社の試写のあと、永田社長が「よく出来た写真だが、ラストの構成はやはり過去の作品と同じ方がよかったのではないか。この写真のやりかたが悪いとは思わないが、わしは昔の方が好きだ。どうだろう、わしの考えは古いのだろうか」と発言された。僕が返事にとまどっていると、雷ちゃんが立っていった。「社長、それは観客の皆さんが答えてくれるんじゃないでしょうか」

 

 結果として「沓掛時次郎」は大へんよい興行成績を収めた。僕と雷ちゃんは東京で会い喜びあった。しかし、その時雷ちゃんは神田の病院に入院していた。血便の症状が出たのである。思えばこの時から昨年の直腸手術の原因が芽生えていたのだろうか。それから彼は毎年の精密検査と服薬を欠かさず続けていた。決して無茶もしなかったし大へん元気だった。

 ますます好調な演技で数々の主演賞を獲得し三十七年、雷ちゃんの言葉をかりれば電話で四時間かかって奥さんにプロポーズ、そして結婚。物心両面の満ちた日々、仕事に対する情熱、そして四十三年テアトル鏑矢の創立、将に行くところ敵なしの感があったのだが東京からの突然の電話は、僕にとって奈落に落ちこむ感があった。丁度三人目のお子さんが生れて奥さんが入院中なので僕の家で仕事が終るまで暮すことになっていたのだが、調子がおかしいので東京で精密検査を受けるといって上京した雷ちゃんから、即刻入院、手術をせねばならぬという電話だった。おどろいた僕が「今の仕事をやめ鏑矢の芝居をあきらめてまで、そんなに急がねばならないのか」と聞くと、「実は好ましからざる細胞が発見されたというんだよ」という。僕は受話器を落とさんばかりだった。すぐ次の日曜に上京して順天堂病院の病室に彼を訪ねた。「やあ来た来た、ちょっと驚かしすぎたかな」僕を迎えた彼の明るい声に、ひょうし抜けしてしまったのを覚えている。

 一週間後、手術は無事に終った。「癌など無くて直腸の悪い部分を切り取って、たったの二時間で終ってしもうたわ、気持ちのいい糞が出るわ」元気な雷ちゃんの電話を聞いた時もしやという不安があっただけに、うれしくて泣けて仕方がなかった。本当に一時は手術前に僕と組んだ「ひとり狼」という作品が役者として最後の作品になるのではないかと思っていた。

再起第一作「眠狂四郎悪女狩り」も僕がやることが出来た。天ぷらも支那料理も何でも食えるんだといってよくいっしょに食べに行った。まさか今年になって、再び倒れるとは夢にも想像できなかった。四月、僕が「秘剣破り」を撮ることになった。これは十年前、雷ちゃんと勝ちゃんでやった「薄桜記」の再映画化だった。雷ちゃんは病床から、京都の僕の家に電話をくれて、十年前の主演者として、こまごまとした意見や感想をいってくれた。僕も「前作に負けない映画に仕上げるから、出来上るまでに必ず病気を直して映画をみてくれ」と話した。雷ちゃんは「そうしたい。そうなるとええのやけど何や知らん、ようなってるのやら、悪うなってるのやら、はっきりせんのや」といっていた。

 その電話が雷ちゃんとかわした最後の会話になった。「秘剣破り」完成後、直ぐ上京したが、逢うことは出来なかった。くやまれてならない。もう二度とあの良き友に会えることは出来ない。二度とあのような良き友にもめぐりあえることもあるまい。心からの御冥福を祈る。 (キネマ旬報69年八月下旬号より)