1951年4月30日に雷蔵を襲名するまで、雷蔵は筵蔵と名乗っていた。1951年3月号の「幕間」に筵蔵の名で、一文を寄せている。

『井上流の舞踊劇』

一月の中座に引続いてこの二月も南座で私達若い者を中心に芝居をさして頂いて大へん有難いことに思って居ます。以前と違って自分達で芝居をさして頂くとなりますと、やはり芝居に対する心構へそのものが変って来て、ほんとうに生きた勉強が出来るのです。これまででも勿論勉強はして来ましたが、今から考えますと、まともに勉強とは云えない位で、これ迄のは云はば畳の上の水練の様なものでした。

扇雀さん、秀公さんと一緒に「宇治川」という舞踊劇を演らせて頂いています。これは去年の五月文楽座の実験劇場のときの「妹背山の道行」と同じ様に井上流の家元さんに教えて頂いたものなのです。昔から祇園から外に出さないと云われている井上流を、二回まで演らして頂いたことは私として大へんな光栄で、是非とも皆様の御期待に副へる様な成績を挙げたいと一生懸命に頑張っています。他の流儀とは違って井上流は舞ですから、とても滋味で、しかも内面的にしっかりしたものを掴んでいないと全然駄目なので随分苦労をしています。順序として文楽座の時のことをお話しますと、あの時は始めてでもありましたがまる一ヶ月の間、毎日夜の十時から二時までぶっつづけに稽古したのでした。憶えにくくて非常に困りましたが、それだけにとても勉強になりました。何しろ井上流は古典に近いので、振りをしていても何だか歌舞伎の型を一つ一つ踊っている様な感じですし、それに、他流の踊りよりも基礎的なものがるので井上流を一度やりますと、他の流儀の踊りを踊っても何だかやさしい感じがして、とても踊りやすいのです。「妹背山」の時は何も分からないままに夢中でうやりましたが、今度は二度目ですから、とても始めの様わけには行きません。何うしても意識して踊ることになるわけで、演っていても我ながら固くなっている様に思へて仕方がありません。

「宇治川」は「ひらがな盛衰記」の勘当場を舞踊化した様なもので、源太と平次との争いに腰元千鳥の心遣いを配したものなのです。細かいことは今とてもお話ができませんが、私の役の源太は始めから終いまで葛桶に腰をかけたままで振りをするのですから、求女とは全く勝手が違い、劇そのものの性質や内容も違いますから、私として何んな風に出来ているか、まるで見当がつきません。求女では思いがけなくも皆さまから讃めて頂きましたが、それがあるだけに今度の出来が何んな工合か、そんなことまでが気になって仕方がありません。この前は全然始めてのことでしたから、少しでも人様並に出来ますと、それだけでもう皆様から讃めて頂けたのではないでしょうか。それが今度の二度目となりますと、前とは逆に悪い所ばかりが皆様の目につくのではないかと思って、前の時よりももっともっと一生懸命にやっているのですが − 「宇治川」そのものが動きの少い滋味な舞踊で、私の役の源太など十五分間の間じっと腰をかけたままなのです。少しでも気が緩みますとすぐに舞台がダレてしまいますし、芸の未熟さもすぐ目について了うので、私としてとても骨が折れます。よく「妹背山」と何ちらが難しいかと聞かれますが率直に云って難しいのは「妹背山」の方で、之に対して「宇治川」は難しいと云うより演り難い踊りと云う方が適当だと思っています。

斯して井上流を二度まで演らして頂いて、大へん有難いことに思います。さきも云いましたが井上流には歌舞伎の基本的なものがうまく採り入れてあるので、お蔭で普通の芝居の、例えば二枚目の基本がよく分り、よい勉強になりました。井上流は私ども俳優は一応習って置かなければならないもので、思いがけなくも之を習う機会を二度までも恵まれた私は大へんな幸福者と思って居ります。

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舞踊劇「宇治川」梶原源太(昭和26年2月南座)

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昭和50年名古屋御園座三月歌舞伎「天衣上野初花河内山」で浪路に扮する筵蔵

雷蔵襲名後、幕間友の会の集いで琵琶湖に遊ぶ

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      上の写真を大きくしてみました、誰が誰だか説明は不要ですよね。(すべて幕間から)