出演作品のすべてを語る −

昭和29(1954)年

 昭和二十九年の七月、八年間にわたる歌舞伎生活から、映画界にはいりましたが、別に歌舞伎の世界に不満があったわけではなく、その頃大映京都撮影所長だった酒井箴さんのすすめがあって、映画という新しい仕事もしてみたくって入った。というところですが、ともかく、この時、三ヶ月三本の本数契約を結び、その第一回作が『花の白虎隊』で、この時、勝新太郎君も、長唄界から映画界にデビューし、共演したわけです。たださえ暑い夏のさ中に、セットの中で、ライトに照らされた暑さは今でも忘れられません。二条城のロケで、見物人にたかられた時など、今思えば、きっと震えていたんでしょう。六年たった今思えば、今昔の感にたえないといったところでしょうか。

 次いで『幽霊大名』で始めて、長谷川先生と共演、手にとるように親切に演技の指導をうけました。『千姫』は、始めてのカラー作品で、暑い中を重たい鎧を着せられて歩きまわるのは大変でした。火事場の立廻りには、オープンセットに本当に火をつけて、その中で芝居をさせられ、随分と恐かったものです。ひばりちゃんと共演した『唄ごよみお夏清十郎』は、新東宝系に上映されたので、私の唯一の他社出演という結果になり、後味の悪い思いをした作品である。

 ここで新しく、大映と専属契約を結んで『美男剣法』で再びスタートすることとになった。この作品で初めて嵯峨三智子さんと共演したが、青蓮院ロケで始めて顔合わせ、挨拶もそこそこに毒舌の応酬を始めて、スタッフ連を唖然とさせたが、以来、顔合わせると毒舌をかわしているが、こういうのを仲の良い喧嘩友達というんでしょうか。今年の一月、時代映画の座談会に橋蔵君、嵯峨ちゃんと三人顔合わせたが、座談会そっちのけで毒舌をたたかわせてしまったが、残念?ながら誌面にはのらなかった次第。(雷蔵答えるの青春スター鼎談参照)

昭和二十九年も次から次と作品に追いかけられているうちに暮れて、三十年の一月『次男坊鴉』で始めてやくざに扮したが、舞台でもやったことがないのだけに苦労したものです。すそをはしょり、長脇差一本さして、颯爽とセットに現われたまではよかったのですが、キリギリスのような細い脚で、いらい、パッチを着用することになりました。