- 出演作品のすべてを語る -

昭和32(1957)年

 正月映画の『編笠権八』は、近藤美恵子君との共演で、これは、以前、長谷川先生が、東宝歌舞伎でおやりになった川口松太郎先生の原作で、私にとっては、初めての浪人もの。非常に、哀愁のある時代劇だったことを記憶しています。これを追って、同じくお正月映画『撮影所はてんやわんや(スタジオはてんやわんや)』で文字通りの総出演、勝君、成年君と三人で、お揃いの紋付を着て、“さくら変奏曲”を踊りました。

 私が映画界入りして、お正月もこれで三度目を迎え、この年は、私の作品系列から云っても、大変充実した年と成り、その第一弾が、吉村公三郎先生の『大阪物語』で、先生に、手を取って教わったことや、更に、生前、溝口先生から台本を戴いて、ヅラ合せまでして、遂に、駄目になったこと等、それは印象深い仕事でした。共演の香川京子さんと始めてセットでお逢いした時、噂にたがわず、女優さんらしく無い大変誠実な方だと思った。この映画の役では、メバリも入れず、マユ毛も描かず、全く素顔に近いメーキャップで、最後迄通しました。

 次いで、若尾、山本さんといったトップスターの方、二人を相手役に迎えて『朱雀門』を撮ったのは光栄の至りだったが、撮影中に、突然、山本さんのお父さんが亡くなられたことも、忘れられない一つです。この映画が、東南アジア映画祭に出品され、私は、ゴールデン・ハーベスト賞なるものを受け、感激の一頁を飾っているのが、特に私の好きな役でもありました。

 『源氏物語・浮舟』で演ったドライボーイ、匂宮は、私の過去には、類例の無い役であるが、私は、吉右衛門劇団が、やった時から、どうしても一度は、演ってみたいと思っていた作品で、大いに意慾を燃して取組んだのであるが、運悪く、盲腸炎をおこし、連日、薬でちらしながらの出演で、どうにか、クランク・アップ迄漕つけると同時に、手術台へ危くセーフ。

 退院後、初めての作品が『二十九人の喧嘩状』で、これで久方振りに、嵯峨君と再会、二人共、大いに張切ったものです。この映画では、勝君も次郎長一家の主柱として、奮斗、その颯爽たる姿を遺憾無く発揮した作品でした。初めてのアグファ・カラーで撮られたのが森先生の『弥太郎笠』で、これまた純情可憐な浦路君との共演第一回。色彩も美しく、其の上、八尋先生のシナリオが軽快で面白かった。当時、私の好きな作品の一つとしてあげるべきでしょう。

 続いて、撮ったのが『万五郎天狗』非常に残念なことだが、あまり良くなかったということだけが私の記憶に残っている。それに題名も感心しない様だ。衣笠先生が書いて下さったのが『稲妻街道』で、これは現代劇の品川隆二君が、初めての時代劇出演で、森先生も、力を入れられた作品である。和歌山ロケでは、一万人余りの見物人に囲まれて、ついに撮影中止、這々の態で、宿へ逃げ帰ったことを記憶している。

 所謂、野性的青年剣士といったところの、私にとっては、非常に変った役で、それにマッチする様に、精悍な感じを出すことに、大変苦労したのが、『鳴門秘帖』で、これには、長谷川先生を始め、山本さん、淡島さん等、ベテランを向うに廻しての奮斗で、私は私なりに演れたと自負している。淡島さんと初顔合せで私のやった役は吉川英治先生の原作には無い人物で、特に、衣笠先生が新に創造されたもので、私にとっては、またとない楽しい役でした。こうして衣笠先生の作品は四本、その演出にも、随分馴れてきた。

 秋も深い頃、嵐山の川の中に、斟酌も無く、トブン!とほおり込まれたのが『鬼火駕籠』で、ブルブルと震えてきたまではよかったが遂に、風邪を引いて、数日間、床の中で暮す破目となって、全く、思い出すのも嫌な作品だったとしか云えないだろう。浦路君とのコンビも次の『桃太郎侍』のあたりから、安定性が見えてきた。これは、原作に惚れた私が企画を持込んだもので、いわば私の企画である。当然、好きな作品の一つと云えよう。