雷蔵の大いなる遺産

デビュー作『花の白虎隊』(昭和29年)から、ファンとの訣別の作品となった『博徒一代血祭り不動』(同44年)まで、16年間に153本−これが市川雷蔵の遺産のすべてである。

単純に計算しても年間平均して9.6本に出演していることになる。さらに厳密にいえば、デビューの年と病気のブランクのあった最後の二年は計算外として、実に年間11本強という驚異的な数字が出てくる。しかも、そのほとんどが主演作品であるから、いかに乱作時代とはいえ、大映の雷蔵に対する期待のほどがうかがわれる。

日本映画が過当競争による乱作時代を迎えたのは、昭和30年代のはじめで、その引金となったのは東映の二本立て興行であった。東映の狙いは専門館の獲得にあり、他社の二倍の映画を提供することによって自社のマーケットの拡大を図ったもの。明らかに質より量を優先する商法で、一種のダンピングというほかはない。当然のことながら、質の低下が危ぶまれたわけだが、他社のマーケットの防衛を理由に、量産にふみきった。

粗製乱造時代のスタートであり、日本映画の衰退の遠因をここに求めることもできる。

昭和29年にデビューした雷蔵が、一本立ちして主演作品をとりはじめたのは、ちょうどこの時期にあたる。だからこそ、16年間に153本というとほうもない出演作品を残しえたのだが、同時にその過重な期待がもともと虚弱な体質の雷蔵の命をちぢめたことは否定できない。

市川雷蔵の作品リストを一覧して感じることは、どうにもならない駄作というのがほとんど見当たらないことである。あきらかにプログラムピクチャーといえる作品にも、どこかに見るべきものがある。シナリオや演出に万全でないところがあっても、雷蔵の演技がそれを補ってあまりある。

派手な場外ホームランは少ないかもしれないが、どんな難しい球でもジャストミートする。だから空振りや見逃しの三振というのがない。

このことは、雷蔵と同じ時代に活躍したスターたちと比較してみれば、いっそう明確になるだろう。

たとえば勝新太郎だ。

同じ年に生まれ、同じ年に映画界に入り、デビュー作まで同じこの二人は、宿命的なライバル視されてきたが、デビュー後の五、六年にかぎっていえば、ライバルどころかまるで勝負になっていない。

雷蔵がデビューまる一年で『新・平家物語』(溝口健二監督)という初期の代表作を出しているのにひきかえ、勝は長谷川一夫の亜流の白ぬりで低迷していた。もっとも、大映の二人に対する扱いに差があり、その差が企画の優劣になっていたことも事実である。

いささか私事にわたるが、この『新・平家物語』を学生時代に見て私は驚嘆した。雷蔵との最初の出会いである。

「日本の映画界にこんなすばらしい新人がいたか」というのが実感であった。

この原作を連載していた週刊朝日が映画の批評を懸賞募集しており、私は溝口演出と雷蔵の演技を讃えた一文を送り、好運にも第一席を射とめた。これが機縁で昭和32年に大映へ入社することになり、以後、宣伝マンとしてご両人と親しく接し、彼らの全作品をつぶさに見てきた。

昭和36年ごろから勝新太郎がにわかに頭角を現わして“悪名シリーズ”“座頭市シリーズ”などで雷蔵に並びかけたことはよく知られている。この両シリーズは、いってみれば場外ホームランに匹敵するが、それ以前の勝は三振や凡退のくり返しで、雷蔵ほどコンスタントに打率をかせいでいない。

同様なことは萬屋錦之助や石原裕次郎にもいえる。いずれもツボにはまれば一発長打の実力者だが、雷蔵のようにすべての打席でキメの細かい打撃をみせたかどうかは疑問である。