いつも燃える意欲を

昭和6年8月29日、歌舞伎俳優である市川九団次を父として京都の中京で生れました。今でこそ蛙の子は蛙というたとえの通り俳優になりましたが、僕の半生は、他の多くの歌舞伎俳優の人々とは少し違うんです。映画界入りすまでの八年間は僕も歌舞伎俳優として舞台に立ってきたわけですが、だいたいこの世界では、役者の子は五、六才で、子役として初舞台を踏み、歌舞伎俳優としての修業を積むのが慣例となっています。ところが僕の場合は舞台とは関係なしに桃ケ岡小学校から、大阪の天王寺中学に学んだのです。

五つや六つの子供が舞台に立つのは、もちろん親の意志なのですから、僕が子役として舞台に立たなかったことは、僕を歌舞伎俳優にしようという意志が両親になかったのでしょうね。僕の初舞台は、そんなことでずっと遅く、終戦の翌二十一年、十五才の秋でした。市川莚蔵の名で「中山七里」の娘はなに出たんですが、中学はその時に中退しました。

男も十五才ぐらいになれば、一応は自分の意志もあるわけで、僕を役者として育てなかった両親も、子供の意志を尊重してくれたのでしょう。歌舞伎の世界に入ることに反対もしませんでした。

役者になりたくてなったものの、子供の時から入っている人々にまじって、十五才が初舞台の僕は、スタートから立ち遅れたということになるんです。もちろん、その立ち遅れを取り戻すために、人並以上の勉強も、努力も重ねなければなりませんし、それだけに僕も一生懸命でした。

歌舞伎の世界は、御承知のように、外から見れば封建的とも云えるほどの家の格式によってその人の位置が決定されてしまいます。名門に生まれた人はいゝとしてもそうでないものは、必ずしも努力の全部が報われるとは言えないんですから、親が僕を役者にしなかったのはそんな理由もあったのでしょう。

市川寿海家に養子入籍し、三代目(?)市川雷蔵を襲名したのは歌舞伎に入って五年余りたった二十六年の六月でした。(なぜ、三代目とあるのかわかりませんが、記述に忠実にうつします。)

約八年間の歌舞伎生活で、楽しかったというか、印象深かったのは、北上弥太朗君や扇雀君ら若い人たちばかりで作った勉強会「つくし会」のことと、武智鉄二さんに指導していただいたいわゆる武智歌舞伎の二つですね。

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よく、映画界入りの動機は、とたずねられますが、僕が映画に入ったのはそんなもっともな動機なんてありませんでしたね。歌舞伎の世界に不満を感じて、映画にとびこんだりしたわけじゃないんですから。前の大映京都撮影所長であった酒井箴さんから映画の出演の話があって、映画という新しい仕事もしてみたくって入った、ぐらいのことですが、それが、映画の方がなんとかいけそうだというんで、ずるずる、今日になったというところかな。今じゃ歌舞伎俳優市川雷蔵より映画俳優の方が有名になってしまいましたが、まだ歌舞伎俳優協会に僕の籍は残っていますよ。

僕が映画入りする前に、錦之助さんや北上さんなどの、歌舞伎の若手が映画に入って、それぞれ成功しつつあった時だけに、映画会社の方でもそれに刺戟されて、歌舞伎畑を物色してたところへ僕がひっかかった、といった方が、僕の映画入りの理由になりそうじゃありませんか。

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映画に入って今年でもう五年、出演本数も五十六本くらいになりますが、この間の印象深い作品というのか、自分としても打ちこんだ作品というのは、やはり溝口監督の「新平家物語」と市川崑監督の「炎上」ですね。新平家の清盛は、線の太いたくましい役柄で、それまでのいわゆる白塗りの二枚目であった雷蔵のイメージとは、一致しないような役でしたが、その僕から強い個性を引き出してくれた溝口監督には本当に感謝してます。溝口監督に指導された時は、映画に入って一年目くらいでしたが、この時が、僕の映画俳優としての目覚めだったのかもわかりません。

新平家から二年程経ってから「炎上」に出たのですが、時代劇の俳優が、現代劇に初めて出演するのは冒険だとよく言われましたが、僕自身は冒険だとは一寸も思いませんでした。冒険だという人は今までの映画界の人の考え方で、俳優、とくに時代劇の俳優に対する考え方が、僕らとは大分違うということですね。その考え方が「炎上」の出演で破れたということも大変嬉しいし、それにもう一つ口幅ったいようだけど、いつも思っていた現代劇も、時代劇も、舞台も、演技というものに区別があってはならないという僕の持論と一致したということです。時代劇、現代劇、舞台の違いは、表現の違いであって、底を流れる感情に違いがある筈はないのですよ。包装の仕方、味のつけ方が違うだけで、中味は同じだと思いますね。だから割り切り方というか、切り換えさえうまく行けば、時代劇も現代劇も何ら抵抗なしにやれると思いますね。この事は扇雀さんが一番よく体験しているんじゃないですか、歌舞伎では女形、映画では男役をやっていますからね。

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時代劇には、時代劇の制約というか、型があるけど、それは、単なる型ではなく、その時代に忠実に、リアルに演ずるという事が、即ち型なんですよ。型というと何か古くさいでっち上げたものに思われるけど、そうじゃなくて、旗本なら旗本、江戸の町人なら町人を、忠実にリアルに劇に生かすために型になってしまっているわけですね。さようしからば、なんて言うと古くさいようだけど、実際にその頃はそうやっていた、その時代の作法さんですよ。

だから、そういう型をはずして残っている人物の感情を考えた場合、例えば女を愛するとか、友情とかいうような心は、何百年前でも現代でも変わりはない筈です。

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僕は大体、僕の主義として、人真似したり、教わったことを鵜呑みにして、その通りにするのが嫌いな方なんです。だから誰それに影響されたとか、誰それ一辺倒など言うことはいけないと思ってます。いい監督についたり、指導してもらった時には、演出とか、ものの考え方とか、そのいい面、悪い面を判断して、それを吸収して自分というものを確立して行くというのが、俳優そしてなすべき事だと思います。いろんな人から、いろんなものを学びとって現在の雷蔵が出来ているわけですからね。

「炎上」の場合、野心を燃やしてやったことには違いないけど、別に演技賞ととろうと思ってやったわけではないんです。いい仕事を、自分がいい俳優、立派な俳優になるための一つだと考えてやったことが、あのような反響を受けたわけです。だからどんな作品でも、いつも着実に誠実にやるということが俳優として一番肝心なことだと思います。

いつも絶えず燃やし続けている意欲が、題材なり、監督さんなりとぶつかった時に、いい作品が生れると思うんです。だから棚ボタ式に、ボンヤリ待っていてはいい作品は生れてこない。といっても藁をも掴むと言ったあがきというか、もがいてはいかんわけで、そこのところが非常にむつかしいです。

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現代劇の「炎上」一本でなく、少なくとも年に一、二本は出たい、というよりやらなくてはいかんと思ってるんですが、そう言ってる間にも半年間のスケジュールが決まってしまったんですが、今年の下半期には是非一本やりたいですね。年に一本か二本ということになると、題材なり、監督さんなりを選ばざるを得ないですから難しいです。時代劇の場合だと、年に十本以上も撮ってますから、そうそう選んでいると選ぶ素材がなくなりますから、まあまあとなりますがね。だから現代劇は厳選して、何か特異性のあるもの、異色作ということになりますね。評判になるようなものという僕自身の考えや、会社の考えもあるし、なかなか、題材がありませんね。ありふれたものなら、いくらでもありますけどね。

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時代劇も十年一日の如き素材ばかりと言うのも考えなくちゃいけないのと違うかな。時代劇に新風をとか、新しい時代劇とかよく言われるけど、時代劇の素材を、如何に現代的に消化するかと言うことが、時代劇に新しさを吹き込むことになるんじゃないですか。例えば、悪い言葉で言えば、キワ物的なもの、その時代にしか受け入れられないもの、と言うのを狙うべきじゃないですか。例えば「君の名は」はあの時大当たりしたけど、今やったってあれだけ入らないでしょう。又、一方鏡花ものとか、金色夜叉など、確かにいいものだし、いつ見ても面白いですよ。しかし何時の時代に見ても面白いと言うのは、映画の特質とは一寸違うと思います。その時、その時代にしか受けないと言ったものをやるべきだと思いますね。勿論、映画全部がキワ物的な物をと言うわけではないんです。ただ映画の生命というものは、そういうところにあると思いますね。歌舞伎の近松の作品にもその時代に騒がれた、三面記事的なキワ物を劇化したものがずい分とありますよ。(「時代映画」59年4月号より)