僕の自叙伝-映画入りまで-A

二人の父

 こうして新しい歌舞伎への情熱をもやしながら幾年−昭和二十六年もおし迫ったある日、寿海の養子に、という話がおきたのです。僕はおどろきました。そしてなやみました。一人息子で父も母もやがて年老いてゆくというのに・・・僕はどうしてよいのかわかりませんでした。

 歌舞伎の世界は門閥制度のきびしいところです。市川寿海の養子になるということは歌舞伎の世界にいるかぎり、将来を約束されたと同然なのです。だからなおのこと、僕はなやんだのです。が、父はキッパリこういのでした。「歌舞伎俳優として一人前になることが、親へのいちばんの孝行だ。お前が大成するためなら、たとえ一人息子を失ったとしても淋しくは思うまい。立派な役者になってくれ。」

 こういわれて、僕もはっきり決心したのでした。

 二十七年四月三十日養子縁組挙式。六月には今までの莚蔵を雷蔵と改め、襲名披露をしたのでした。

映画入りまで

 いままで一人息子であまやかされて育ってきた僕に、養父寿海は芝居の上でもきびしいこと、このうえなかった。僕にしても遠慮しがちでいられるより、どれほど嬉しかったことか!父の名を恥かしめないようにと思う気持で一杯でした。

 「鳥辺山心中」では父子共演し、さいわい僕も好評をえました。

 と、そのうち、つくし会同人の一人だった北上弥太郎が映画に入り、そして扇雀も映画に出演するとなると、新しい歌舞伎の意欲にもえていた「つくし会」も解散同様になってしまいました。やがて鶴之助も映画へ、友右衛門も半四郎も九朗右衛門もつぎつぎとカブキをすてて、映画へ走ってしまうと、残るは僕一人です。しかし僕自身は、ニキビはなやかな顔で、眼の工合などから映画は無理だと、考えていましたし、歌舞伎こそ僕の唯一の道だと思っていました。