雷蔵のこと

 私は子宝に恵まれないまま養子のことも考えず、役者は私一代と心で決めていました。ところが昭和二十五年の暮れ、名古屋の御園座で関西歌舞伎の公演がありまして、その時、莚蔵、小金吾、延太郎といった若手で「つくし会」という会を作っていて、夜の部がハネてから勉強芝居をやりました。

 出し物は「修善寺物語」で蓑助君が指導に当り、私はその審査員をしました。莚蔵は頼家をしていましたが、なかなかの熱演で、私はこの頼家に最高の八十点を与えました。これが私の養子になった雷蔵です。

 莚蔵の父市川九団次さんが、莚蔵の養子縁組について私を訪ねて来たのは、このことがあってから間もなくのことでした。そうこうしているうちに今度は松竹の白井信太郎さんが「莚蔵はいい子で、先の見込みがあるから養子にしてはどうか、私が仲人をしてもいい」といって来られましたので、役者は私一代と決心はしていたものの「つくし会」の莚蔵の好演技を思い出されて、家内と相談の上、遂に養子に迎えることに決め、昭和二十六年四月、養子縁組を致しました。

 越えて六月、莚蔵に市川家に由緒ある八代目市川雷蔵を襲名させ、同時に大阪歌舞伎座で「白浪五人男」で私の弁天小僧に赤星重三郎をさせ、その披露をしました。雷蔵とはその後一年ばかり一緒に舞台に出ていました。雷蔵の役柄は立役、和事系統で、若年でもあり、あまりいい役はつきませんでしたが、私はそれで結構だと思っておりました。

市川雷蔵襲名披露口上

(右から寿美蔵、寿海、雷蔵)

 

大阪歌舞伎座昭和26年6月興行筋書