三人のファンの幅処

「さて・・・と、最後に、チャンバラを主題にした時代劇というものの将来ですが・・・」といいかけると、雷蔵さんが

「絶対、増々充実しますよ」と力強い返事だ。

そしてまた、大先輩の高田さんは

「剣をひっさげた芝居は、剣というものに集中された心理劇ですよ。現代劇では、細かい心理的な葛藤とか、人間の悩み、悲しみ、哀れ、淋しさ、或いはまた喜び、愉しさ・・・というようなものを克明に、人の動きで表現するでしょう?チャンバラの世界では、剣と剣をもった人間像の中に、その、すべてのものが表現されて、より鋭い筈なのです」

なるほど、これはよい話である。剣の映画ほど、現実には、これほど凄惨で、これほど厳粛なものはない筈だ。たのしめる剣劇もいい。それはオトナのオトギ噺。が、オトギ噺でない、真実に人生を追求して、息づまるほどの剣劇があってもいいはず・・・。とすれば、剣劇の将来こそは、更に、永遠的なものではないのか。

「寄らば斬るぞ」・・・そんな流行語があった。真実に、寄らば斬られる・・・それほどの映画よ、何故出ない?剣よ敢然と怒れ!

「そろそろ、皆さんみ、お次の仕事もあってお忙しいと思いますので、ほんとの最後ですが、時代劇俳優さんのファン層をききたいのですが・・・」というと、まず高田さんが

「僕の場合は幅がひろいな。家族的ですよ。ラジオの前に、オバアチャンから孫まで座ってるように・・・。オバアチャン、お母さんは、昔の僕の映画と、僕の歌を覚えていてくれます。未だにね・・・。そして子供さんやお孫さんは最近の映画と歌・・・。ステージに立つと判るんですが、多いのが家族づれ。コーキチやアい、手をあげてくんろヨオ・・・いや。これは、オーバーだな・・・」

高田浩吉さん、そんな冗談をとばしながら、色紙へ達筆に、お得意の猿の絵と署名をサラサラ・・・。

「千代さんのファンは?」と今度は千代之介を見る。

「そうですね。殆どが女学生。中学高校級でしょうね。一番、夢の多い年頃の人たちで、その人たちの夢をこわすまい・・・という努力がこれまた大変です。それから、中には中年婦人で『あなたと同じ年頃の弟がいますから』とファンになっているのもある」

「雷蔵さんは?」

「やっぱり女学生・・・。でも、たまには、六十ぐらいのオバアチャンがいましてね・・・『ワタシのマゴに似てるよ、ライさまは・・・』とこうですね」

さて、約束の二時間がすぎて五時ちょっと・・・。

千代之介さんはラジオの録音へ、雷さまはポートレートの撮影に、そして、美貌タイム厳守の高田浩吉さんは睡眠へ・・・。

いや睡眠にはまだ早いだろうが時間は正確に、もろもろのスケジュールが組まれているのでもあろうか、紺のピケ帽を目深にかぶって帰り仕度。

さて、三人を送り出して、ブラリと出た四条の大橋から祇園への道は、古き都の残りの匂いと新しき装いのけばけしい色で、実は雑然ととりとめもない姿だった。

「京都は、うんと古くて、うんと新しいものが同居してるんですよ映画的に見ても愉しいですよ」
とは座談会の席上で云った高田浩吉さんの言葉である。

京都は、現実に、古いものと新しいものがチャンバラ劇をやっているのである。

生命がおどっているような、そして真実に、人間が天に向って訴えているような、そんなチャンバラよ・・・と祈らざるを得ない。

不正を折るには剣が一番早い、チャンバラ映画への期待が、ムクムクと僕の胸に湧いてくるのだった。

(近代映画56年4月号より)