勝新太郎と市川雷蔵

 出不精、付き合い不精の私は、観光都市に住まいしていながら出歩かないし、人を案内する事もない。したがって観光客の残していった印象も持たない。人さまざまとして心に残るのは、二十五年の撮影所生活にある。

 戦時中の日本映画の製作会社は統制合併により、松竹、東宝、大映の三社が残された。当時は物資の不足で、制作本数も少なかったが、反面競争相手も少ないというわけで、三社はかえって独占的な利益に恵まれていたものである。それが戦後の自由競争時代になると、映画業熱が活発になり、三社の他に新東宝、東映が新会社として名乗り出た。そこで、各社にスターが要求され、スターによっての鎬が削られた。

 市川雷蔵は京都の人である。京都は木屋町に生れ、祗園囃子をきいて育った。歌舞伎俳優市川九団次の子息で、「中山七里」の娘はなで初舞台を踏んでいる。後に望まれて市川寿海の養子になった。大映に入社したのは、昭和二十九年の夏である。デビュー作は、『花の白虎隊』続いて『千姫』の秀頼、『新・平家物語』の若き日の清盛と、『弥太郎笠』等の股旅物に出演、映画の世界に住むことの自信を得た。

 雷蔵さんは口は悪いが、几帳面で、仕事熱心で、暇さえあれば本を読みに二階の企画室に上がってくる。眠狂四郎の黒紋付の着流しかなんかで、カタカタ下駄の音をさせて上がってくると、私は付き人のおせきさんから頼まれている漢方薬のお茶を出す。関屋恵三郎というレッキとした男性だが、撮影所ではなぜかおせきさんと呼んでいるお付きさんである。おせきさんは歌舞伎の女形だったが、雷蔵さんの映画入りで、付人としてついてきた。一口に付人というが、生易しい仕事ではない。終始影の如く付き添って、主人の身の廻りの世話は勿論、今日の仕事の段取りから、その日の健康状態まで気遣わなければならない。おせきさんの雷蔵さんに対する気の遣いようは大変なもので、何が好きで、何を食べるとジンマシンが出て、今夜あたり何が食べたいということまで、ちゃんとわかっている。“だしジャコ”は口の悪い雷蔵さんがつけたおせきさんのアダ名だ。顔が、よく干上がっただしジャコに似ているという。

 雷蔵さんは「飲まな、また、だしジャコがうるさいやろなァ」と、湯呑の漢方薬を飲みながら、私の原稿を読んでくれた。申し訳なく、親身になって読んでくれた。小春、治兵衛の心中後のおさんを書いた「後のおさん」が、オール読物の一幕物に落ちると、雷蔵さんが言った。「題名があかん。このままでええよって、“鴈”とつけてみ。幕切れに鴈を啼かすんや」その通りにして、もう一度出したら、今度は入選した。「みてみい。やったやないか」と、よろこんでくれた。

 お昼になると、おせきさんが食事を運んでくる。やせぎすで、胃腸の弱い人にかぎって、お茶漬けが好きだ。「暑い時にぶぶ漬けばっかりやったらあきません」おせきさんは舛田屋茶漬と名付けるスタミナ食を考えた。はもの白焼き、胡瓜、しらす干しを梅酢であえた絶品だ。「繊維だすよって、アスパラとニンジンのさわやか漬も食べとくなはれ。食後のお薬忘れんように」「わかってるがな、うるさいなァ、だしジャコは」

 その雷蔵さんが、夏の盛り、祇園祭の朝、亡くなった。知らせをきいた時、撮影所中がしーんとした。思いがけない声をきいたように、みんな自分の耳を疑った。撮影所が一瞬まっくらになった。

 おせきさんが泣きも喚きもせず、ひっそり撮影所から姿を消したことで、その人の悲しみの深さがわかった。その後、おせきさんが祗園の四条小橋で、お茶漬屋をはじめたという。誰が所望してもつくらず、主人のためだけの手づくりに、おせきさんは自分の道を見出したのだ。