蝶の道行きを踊る雷蔵さんと川口さん

みかけはボンボンだが
 大映時代劇の市川雷蔵さんが新橋演舞場で川口秀子さんと一緒に踊るというので、その前夜お二人にお話をして頂いた。
記者: お忙しいところを、どうもすみません。いままでお稽古ですか。
川口: ええ、もう大変なんです。
雷蔵: 映画も忙しいけど、たまに東京にくるとなんだかんだと引っぱり出されて。今日の対談もそうですが−そんなこと云っちゃまずいね。(笑)
川口: この人はいつも、こうなの。うちの主人(演出家武智鉄二氏)がこんど初めて私に紹介した時がふるってるの「雷蔵くんは、さばさばしていい青年だが、いいかげん口が悪くて君と似たところがある。だからつき合いいいよ」(笑)
記者: じゃ、今度初めてお逢いしたんですか。
雷蔵: そうです。噂はかねがね武智先生から、伺っていましたけど。(笑)
川口: いやあね。でも今度はほんとうに助かったわ。映画で忙しいのに私の舞踊発表会に出演して頂けて。こんどのお相手をしていただく“蝶の道行き”というのは曲は古くからあるものですが、全然新しい解釈で主人が演出するこ とになったでしょう。だから相手の方は新しい感覚の男性でないと困るのです。きれいで、しんがあって、品がよい青年−。武智歌舞伎時代主人が懇意にしていた関係で、雷蔵さんにお願いしたのです

川口: いやあね。でも今度はほんとうに助かったわ。映画で忙しいのに私の舞踊発表会に出演して頂けて。こんどのお相手をしていただく“蝶の道行き”というのは曲は古くからあるものですが、全然新しい解釈で主人が演出するこ とになったでしょう。だから相手の方は新しい感覚の男性でないと困るのです。きれいで、しんがあって、品がよい青年−。武智歌舞伎時代主人が懇意にしていた関係で、雷蔵さんにお願いしたのです。

雷蔵: 弟子は先生には弱いですからね。(笑)うまく責任が果せるか心配してるんですよ。踊りは少しやったけど、この頃余りやってないですからね。

川口: すじがいいから、私もとてもやり易い。いつか、京舞の井上八千代先生が、雷蔵さんの踊りは筋がよいし、一番好きだとおっしゃっていたそうですけど、私は新鮮な気持で張切って踊れそうです。

雷蔵: いよいよ責任重大です。

川口: 踊りの場合相手が変ると間が違っちゃうものだから片寄るんですが、雷蔵さんの場合はそんなことはない。映画なんかでもそうでしょう。

雷蔵: 恋人同士だと間が合いすぎるということを聞きますが、自分だけ陶酔して観客が酔わないからでしょうね。

川口: この間雷蔵さんの映画をみたけど、山本富士子さんの御殿女中を相手にとてもよかった。

雷蔵: それはどうも。ファンにはおばさまが多い。(笑)

川口: (記者に向って)私のことをおばさま、おばさまって云うんですよ。

雷蔵: 女の人で、おばさま位の年齢の人が一番呼びにくい。(笑)

記者: あの時(『かげろう絵図』)の山本さんと雷蔵さんの役柄は夫婦なんですか。

雷蔵: 夫婦?じゃない、同棲かな。(笑)ぼくはよく知らないけど。(笑)でもあの時は、相手が山本さんだけに、負けちゃいけないと思って大分苦労しましたよ。

川口: 芸の世界はとくにね。私なんかも主人とよく議論するんですよ。

記者: さっきから雷蔵さんのお話を伺っていると口の悪いのは別として(笑)役柄などからみても、何か権勢に対抗するというか孤独で悲運なものにしみじみとしたものを出す。言葉が足りませんがそんな気がします。私生活でも悲運の投手、阪神の井崎選手を引きとって激励されたとかいうふうに・・・。

雷蔵: (少し困ったように)あれは・・・。ああいう能力のある人が理屈で割り切れない運、不運というものに左右されていることに同情というか、何か心ひかれたんですよ。それに年下だし。ぼくは兄弟愛を知らずに育っただけに、それに近い感情があったんです。でも今年初めて一勝してくれましてね。早速祝電を打ってやりましたが、ほんとうにうれしかった。

川口: 雷蔵さんの一面を語る、いいお話ね。人気のある選手と義兄弟の縁を結ぶというのは多いですけど・・・。雷蔵さんには苦労してないようでいて、何か精神的な深さといったものが感じられるわ。

雷蔵: ほんとですか。人によっては僕のことを生れっぱなしだと云うけど・・・。(笑)

記者: 『炎上』の演技なんかそういう事が感じられましたね。

雷蔵: それはどんな役柄でも、大なり小なり自分の性格や経験に通じるものがありますね。例えば『炎上』でいえば、どもりで大へんはずかしめられた。僕がどもりでなくても何かではずかしめられたことがあったとする。そういう時の感情を移しかえて、それに味をつけて、役の中の性格にするということですね。それが演技の一つの処方というのか、そういうことだと考えています。

◆ 期待の星 井崎勤也
 破格の800万円の契約金で1956年に大阪タイガースに入団した井崎はタイガースのエースとして背番号18をつけ、その活躍が期待されたが怪我に泣き、58年には48番へ変更した。

前岡勤也(井崎勤也 1937〜)

 三重県亀山市出身の元プロ野球選手。中学卒業後、前岡家の養子になり和歌山県立新宮高等学校に進学。1954年の夏の甲子園に出場し、準々決勝では延長17回を完封している。1955年にプロ野球球団の激しい争奪戦が起こったが、最終的に大阪タイガースに入団した。

 入団時、登録名を元の姓の井崎勤也とした。非常に期待されていたが、入団当初に肩を痛めてしまい、1年目は僅か5試合の登板に終わる。1959年に登録名を前岡勤也に変更した。この年にプロ初勝利を完投で挙げた。これが、最初で最後の勝利であった。60年中日ドラゴンズに金銭トレードで移籍。しかし投手としては成績が残せず、63年から外野手に転向。64年に自己最多の51試合に出場するもオフに引退した。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』