「炎上」以後、「濡れ髪剣法」「遊太郎巷談」「蛇姫様」「お嬢吉三」「濡れ髪三度笠」「かげろう絵図」「浮かれ三度笠」「切られ与三郎」「鯉名の銀平」「婦系図」等々、雷蔵主演作品は、年間10本から12本の割で製作され、雷蔵は押しも押されもしない主演俳優としての座を確実に手中にした。

彼の中期の作品群の中で、めぼしいものを挙げると、伊藤大輔監督の「弁天小僧」、森一生監督の「若き日の信長」「薄桜記」「忠直卿行状記」、衣笠貞之助監督、山本富士子共演の「歌行燈」、三隅研次監督「大菩薩峠」、増村保造監督「好色一代男」、池広一夫監督「沓掛時次郎」があり、市川崑監督と二度目の組み合せの「ぼんち」がある。

「ぼんち」は、山崎豊子さんの原作で、京マチ子、若尾文子、越路吹雪、草笛光子さんたち華麗な女優陣に囲まれた雷蔵は、大阪の伝統的和事師を見事に演じ、大ヒットした作品である。

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昭和三十七年は、雷蔵にとって記念すべき年となった。私生活の上では、雅子夫人との結婚がある。ホテル・ニュージャパンでの結婚式は、スター雷蔵にふさわしく豪華であった。私の招かれて列席した。(この頃、私は雷蔵とかなり親交があり、京都撮影所へ仕事で行くと、彼は必ず一夜を私のために空けて語り合い、彼が上京するときまって電話をかけて来て、一緒に芝居や映画を観ては、意見を斗わしたものである)

結婚式上、団十郎氏の市川宗家としての祝辞があり、吉屋信子さんのほのぼのとしたお言葉があり、そして、「炎上」以来親交のあった三島由紀夫氏のユーモラスなスピーチがあった。雷蔵はお見合いの席でちっとも話をしないで、うつむいて新聞を読んでいた・・・とスッパ抜いて爆笑をよんだ。「おけさ唄えば」に共演し、雷蔵が弟のように可愛がっていた橋幸夫くんが、お祝いに「おけさ唄えば」を唄ってくれた。

仕事の上では、この結婚式に出る前日まで撮影していた「破戒」が、彼の新生活を飾る第一作となった。島崎藤村原作、市川崑監督と三度目のコンビになる作品で、格調高い名作として話題を呼んだ。(この作品で、雷蔵の強い推薦により、新人藤村志保が誕生した。役名の志保と、島崎藤村の藤村を頂いた芸名が決まり、私は島崎家へ許可を貰いに行った記憶がある)

次いで、山本薩夫監督と初めて組んだ「忍びの者」が、この年の暮に封切られた。村山知義氏が新しい角度から描いた石川五右衛門の物語は、山本監督の骨太い演出と、通説の五右衛門像を破壊した雷蔵の演技により、従来の忍術映画とまったく異質な作品になった。映画の忍者ブームの初めであり、シリーズとして雷蔵の代表作の一つとなった。

以後、雷蔵作品は充実の度合いを深め、ようやく台頭して来た勝新太郎と二人で大映の屋台骨を支えて来た。彼の充実期の作品としては、三隅研次監督「新選組始末記」「剣」があり、ヒット作品として雷蔵シリーズとなったものに、「眠狂四郎」「忍びの者」「陸軍中野学校」「若親分」と、実に四つの柄いきの違う作品を華麗に演じ分けた。

この時期のシリーズ以外の代表作としては、森一生監督「ある殺し屋」がある。宮川一夫氏の精緻なキャメラと、斬新な構成になるこの作品は、同じムードのアラン・ドロンの「サムライ」に先立つこと一年、単なるアクション映画の域を越えたものとして注目された。

次に、有吉佐和子原作、増村保造監督の「華岡清洲の妻」は、高峰秀子、若尾文子と配役の妙もあり、雷蔵は主演男優賞を獲得した。

昭和四十三年、「眠狂四郎・人肌蜘蛛」完成後、雷蔵は劇団「鏑矢」を作り、その旗上げ公演の準備中に仆れた。この時、既に癌が彼の身体を蝕んでいたのである。が小康を得た後、「眠狂四郎・悪女狩り」「博徒一代・血祭り不動」を撮り、川端康成原作「千羽鶴」の撮影直前に仆れ、遂に再び雷蔵はキャメラの前に立つことが出来なかった。

特に、私と一緒に「あゝ海軍」をやろうと言う約束も虚しく、雷蔵は少年時代から夢みた凛々しい海軍士官を演じることなく、その才を惜しまれながら、三十七歳の生涯を閉じた。

その日、七月十七日は、雷蔵が育ち、日本映画の伝統を受け継いだ大映の先輩、同輩、後輩と共に、数々の優れた映画を生んだ京都の街に山鉾がそびえ、祇園囃子がにぎやかに夏空に流れていた・・・。(セルフ出版「ウイークエンドスーパー」昭和52年11月号より)