剣にかける美学、再び

市川雷蔵、未リリース作品一挙登場

美剣士、市川雷蔵がヴィデオで甦る。まさにそう呼ぶしかない事件が起こった。

ここ数年、大映の秘蔵のライブラリから次々とニュープリントが焼かれ、そのダイナミズムとリリシズムを、再びわたしたちの眼前に明らかにしている市川雷蔵。数えてみれば、その出演作だけでもすでに100本以上がヴィデオ・リリースされている。もちろんそのなかには、『薄桜記』(59)、『歌行燈』(60)、『斬る』(62)、あるいは「眠狂四郎」シリーズなど、その代表作は網羅されているのだが、近年の雷蔵再評価の気運は代表作に止まらず、雷蔵が体現した、(勝新太郎などが残した骨太な時代劇の流れから逸脱した)どこか華奢な、しかし古典的な美しさに貫かれた時代劇のエステティックでもあっただろう。そして、それを可能ならしめたのが、三隅研次や森一生といった名匠との邂逅だったはずだ。

たとえば、『斬る』を見てみるなら、出生の秘密を背負って生きねばならない、あらかじめ負債を背負った主人公・高倉信吾を雷蔵は、表情を極限にまで殺して演じる。口の端を歪めて笑い(いや、それはいったい笑いなのだろうか)ながらも、目は一切の感情を表せずに、しかし、全身から不遇をかこつ藩士の怨念のごときものを発散し続ける。殺陣のすさまじさは、なによりこの雷蔵が演じ発し続ける怨念がさらけ出されるからにほかならない。そして、彼を演出する三隅研次は、殺陣のダイナミズムそのものよりもむしろ、雷蔵の存在の怨念そのもの、それがまるで剣に乗り移ったかのような、背筋も凍る鋭い剣の閃きをだけ、追いかける(それゆえ、殺陣は素早いカット割りによって解体され、殺陣のダイナミズムを殺ぎながらも雷蔵の剣の殺意をこそつかまえるのだ)。

もちろん、この『斬る』は傑作にほかならない。だが、それが誕生した60年代よりも、いま、それを見ることのなんと新鮮なことか!すでに、亡くなって30年近くが経ち(してみれば、『斬る』や『眠狂四郎』は晩年の作品なのだ!)。雷蔵の名を目にすることもなくなっているいまこそ、この稀代の美剣士の名は高まっており、その全貌が見えようとしているとも言えるだろう・・・。

7月10日、雷蔵ヴィデオ未リリース作品6タイトルが、一挙に発売された(それも、税抜き3800円セルスルー・リリースというのがうれしい)。

三隅研次監督とのコンビによる『編笠権八』(56)、『千羽鶴秘帖』(59)、森一生監督とのコンビによる『昨日消えた男』(64、41年の長谷川一夫主演作のリメイク)、田中徳三監督と組んだ『剣に賭ける』(62)、『手討』(63)、そして井上梅次監督と組んだ『第三の影武者』(63)の6本だ。

すでに昨年の雷蔵特集上映などの折に見られた作品ではあるが、それ以降、まとまった再上映の機会もないゆえ、貴重なリリースだ。なかでも注目したいのは、『剣に賭ける』だろうか。ここで、剣豪・千葉周作の若き日の姿に扮した雷蔵は、剣にのみ死ぬ男を演じるのだが、ここでもかって赤ん坊を斬ってしまったという恨みを秘かに抱えている。その恨みを消すことができないまま、ライヴァルである高柳又三郎に打ちのめされ、ますます剣にのめり込んでいくのだ。

まさに雷蔵ならではの主人公像、そして、ライヴァルを演じる天知茂との死闘、名花・高千穂ひづるとのからみなど、時代劇の醍醐味、雷蔵映画の醍醐味を詰め込んでいる。

あるいは『千羽鶴秘帖』は、雷蔵自らがデザインの原案を出したという、千羽鶴スタイルで決めた謎の男が、父を殺された剣士を助けて八面六臂の活躍を見せる。しかも、大凧に乗って鯱を奪うという、大活劇ものならではのシーンもあり、雷蔵の静的な魅力のみならず、動的な魅力をも堪能させてくれる。

そしてあるいは『第三の影武者』では、戦国時代を背景に、主君の影武者として生きながらも、その運命にあらがう男の姿を、主君と影武者の一人二役で演じ、雷蔵のふたつの魅力をあますところなく見せる、これもまた、高千穂ひづる、天知茂の共演と、往年の大映スターが勢揃いする。

雷蔵を語り尽くすことなど、まだまだできない。この6本には、その片鱗が表されているにすぎないのだ。願わくば、雷蔵コレクションのリリースを!・・・というのはかなわぬことなのだろうか。時代ものから現代ものまで、広い魅力を見せたのも彼なのだから。テーマごと、あるいは監督ごとに選りすぐられたシリーズを、まとめて見たくなった。