けろりんかん

市川雷蔵が亡くなってもう一年になろうとしている。二、三日前古い本をひっぱり出したところ、中からスナップ写真が出てきて暗然とした。昭和三十八年正月、大映の新人女優高田美和、藤村志保、坪内ミキ子が雷蔵邸に年賀の挨拶にいった記念だった。雷蔵の若々しい微笑が印象ぶかい。とくに背後の茶掛けをみて、あまりに無惨すぎるとおもった。「福寿海」はこのあと「無量是故応頂礼」とつづく仏経典の有名な一部で、芸能の世界にも古くから出てくる言葉だ。この茶掛け、誰が書いたものか知らない。だが雷蔵にとっては広大な海のように福や徳が集まることがなかった。苦しみと多忙のうちに短い生涯を燃焼してしまった。

彼とははじめて話をしてから十五年たった。とくに京都のあつい盛りで『新平家物語』のときだった。溝口建二監督作品にはたいていの場合わたしは現場にゆく習慣だった。

雷蔵をみたとき、ふっと古い中国の詩人李白の「少年行」を思い出した。「銀鞍白馬」の文字である。なるほど白い馬に銀の鞍をおいて長安の都に乗りこんでゆくような青年の面影はあるもんだとおもった。

ところがこの貴公子然とした青年は、まことに勝手にものをいう。関西流でいえば“云いたいことをいい”ということがすぐわかって苦笑した。ある日、たしか『炎上』をとっていたときだが、わたしはセットで働いていた長谷川一夫にあいに行った。少しひまだった雷蔵が一緒にきた。銭形平次が悪徒どもにかこまれてこれから殺陣がはじまるシーンだった。ふっと雷蔵は小さい声で、

「スターはいいですなあ、あれだけ包囲されても決して死なん」

わたしは彼の顔をみた。けろりんかんとしている。

「ぼくは捕物シリーズをやれといわれたら、毎作かたき役の顔ぶれをかえることを条件にしますね・・・・だって犯人は誰か、すぐわかっちまいますよ」

彼がすぐれたリアリスト、合理主義者ということをはっきり知った。このような種類の話を、いわゆるスターと話したことはそれまでほとんど一度もなかったように思う。

それからずっとあと『忍びの者』のとき、京都撮影所で彼にあった。

「忍術ってのはおもしろいですなぁ・・・しかし、だいたいあんなもんウソじゃないですか」

「まあ八分どころそうでしょう」

「うまいもんですねぇ、ウソでないような仕掛けがしてある・・・」

「それ、宣伝部のうまさですわ」

「ふわ、忍術にも宣伝部があったん・・・」

と彼は大笑いした。彼にとっては身近にあってしじゅう行っている宣伝部という部署を思ったのだろう。彼は宣伝をおもしろがり、苦笑したり喜んだりしてきた。美しくやさしい二枚目として売られることに抵抗を感じていた。たとえば初期の諸作品『安珍と清姫』や「狸御殿モノ」なんか、どれくらいきらいだったか想像にあまりある。これと対照的に「中野学校モノ」や『雄呂血』さては『華岡清洲の妻』などは積極的になっていた。

昭和四十二年の浅春、いい映画だった『ある殺し屋』の試写のあと、大映本社の宣伝部で彼にあった。

「映画はどういうことになります?」彼は微笑しながらきいた。

「さあ、こんな調子じゃ、どうにもなりませんな」

「ふう、やっぱりあきまへんか」

「あきまへんなァ」

このような話はスターが自社の本社宣伝部内で、普通の調子で話す話題ではない。それを彼はきちっと知っていて、しかも平気で話した。このような俳優があっただろうか。これから出てくるだろうか。わたしは今後出てきてほしいと切実におもっている。

白馬銀鞍の青年は落花をふんで遠くに去ってしまった。李白の詩では「きっとイラン系の美女(胡姫)の酒場で笑ってのんでいるんだろう」とうたっている。だが雷蔵はそうではない。果てしもなく遠いところに逝ってしまった。云いようのないさみしさが胸をいっぱいにする。