主人公と企画

<対 談> 市川雷蔵 依田義賢

 

出発から間違っている時代劇の企画

市川: 『炎上』の溝口という役は割合にスムースに、『人肌孔雀』の剣士の方が、仕事をしたあと疲れを覚えたということ、そのへん面白いんです。どちらも五時に仕事が終っても『炎上』の場合はまだ何もしていないような気がするんです。『人肌孔雀』の時は、別に立ち廻りをしなくてもクタクタになるんです。そのへんに時代劇と現代劇の違いもあるんだと感じますね。

依田: それ、いいように思いますか、不愉快ですか、どっちでしょう。

市川: 僕としては時代劇の方が大変やりよいはずなんですがね。

依田: 今の時代映画の人物の掴み方だとか、境遇のすすめ方、事件の組み方、事件の中で動いていく感情の不自然な展開など、随所に無理がある、という点では不満があると、前にあなたはおっしゃったけど・・・。

市川: 結局、人間が生きていない。

依田: 人間の感情をたどっていって、これは俳優さんばかりでなく、私らでも、仕事をしていて、無理をしている時は辛いですよ。でも、これならと納得できたら、イソイソとやれますね。

市川: そういうことですね。

依田: 時代劇の主人公の問題ですけど、相変わらずの型通りの人間ばかり出て来ますけど、もうちょっと変ったものできないのかな。みんな御立派すぎるでしょう。

市川: えゝ。

依田: そういうことがテーマにも関係してくるんです。あんたも、オールマイティみたいな颯爽とした主人公をやりたいかな。

市川: そういうことより、僕なんかが企画部で話しを聞いていると、時代劇の場合は、テーマとかはそもそも作品を決める時に問題じゃないんですね。出発点から間違ってるから、本にする時にああしろこうしろと云っても始まらんところに来てるわけですよ。テーマなんかより人物が派手に動いて事件から事件へいく、そういうのをより多く選んでるんですから、脚本になってこっちが注文を出すにもはじめっから違うでしょう、そこに問題があると思いますね。つまりなんでしょうね、時代劇を作ってる京都の人たちは、時代劇の生命はアクションとか事件の面白さにあるんだというふうに、宿命みたいに思いこんで、それでいいのだとやっているんでしょうね。だから、若いわれわれが云い、雑誌で時代映画の新しい方向は、なんて云っても、そんなことは向う岸の火事を眺めているようなもんであるわけなんですね。

依田: 僕ら、横から見とって、これは無礼な話なんですけど、雷蔵さんという絵具があるからそれを使ったらいいんだという考え方ですね。マスコミにのって企画はするんですけど、例えば雷蔵さんがマスコミにのらなくなったら知らんという、水臭いもんは動いてますね。その時に一番大事なことは、錦之助君でも橋蔵君でも性格の魅力が、充分に発揮されないで壁に突き当たったり、また、それが早くなくなってしまうのではないかと思われるようなやり方には私たちも不満はありますね。

市川: そういうことに対してはもちろん不満もあるし、それでは困るんです。そういう意味でも『炎上』には特に力を注いだわけですけどね。結局、雷蔵なら雷蔵はこういう映画が受けるんだ、それを勝手にきめてしまって、一つのものしか出来ないような役者にしてしまう。そしていつかは当然それが飽かれてしまう。観客というのは常に新しいものを求めていますからね。だから、ブームにのれば、ある一定の時期はそれで人気も保てるわけなんで。僕は、初めからそういう俳優になりたくないと思っていたんです。僕のように絶えず違ったものを求めていくやり方は、ある意味ではファンを惑わすかもわからない。一つのはっきりしたイメージを作らないうちに次にうつるということは、私という俳優を好きだといって下さるファンのイメージを変えるおそれは大変あるわけです。初めは若殿様がいいと思ってたら『新平家』の清盛をやったり、『炎上』に出たりするんでは、イメージがこわれて、いやだというファンもあるかもわからない。しかし、そういう人は、若殿なら若殿がいいと云ってた人は、若殿ばかり一年も続いてやれば見捨てていく人です。結局、変ったものを次々にやれるけれどもそれについてきてくれるファンというのは、いつのまにか、演技者としての成長をみつめてくれるファンになってくるんですね。