企画から撮影に入るまで

- 『二十九人喧嘩状』スタッフリレー -

 ● 『二十九人の喧嘩状』について ● 助監督の仕事
 ● 脚色者の弁 ● 美術を担当して
 ● 配役ができるまで

 

脚色者の弁

八尋 不二

 正直なところを言うと私は「やくざ映画」は好きじゃない。やくざそのものを好きでないのだから「やくざ映画」を好きになれる筈がないのである。強きを挫き、弱きを扶けるのが侠客の理想とされている。理想は結構だが、現実の問題としてそんな侠客は居もしなかったし、それではやくざなどというものは成り立ち得ないのである。やくざというものは如何なる場合でも強きに付いて、弱きを挫くものであって、例外は強者を倒せば、自分が売出せるとか有形無形の利益が有るという場合に限られる。また「やくざ映画」の常道は惚れた女にも惚れない素振りで、相手に惚れられても此方から惚れてはいけない。どうも、こういう所も空々しくて私にはやり切れないのである。 

 そこで今度の『二十九人の喧嘩状』だが、やくざはやくざでも、その中に血の通った人間を点出してみようとした。失敗しようがしまいが、そうでもしなければ今更「やくざ映画」でもあるまい。と言って、なまじっか「やくざ」否定の映画なら「やくざ映画」では目的も達しられないし、成功もしない。「森の石松」(吉村作品)がよい例で、やくざ否定をするつもりなら、やくざが主役ではいけないのである。

 次郎長ものの中で「吉良の仁吉」というのは話も一番地味だし、仁義の為めに恋女房を離別するという甚だしく封建的な話なので、最近は余りウケもしないし、面白い話でもない。そこでこれを採り上げる以上、どうしたら現代の観客層の共感を得るかということが最も重大な課題になって来る。それには先ず、仁吉という主人公が、人間的な魅力を持っていなければならない。彼とその妻との生活が、従来の「やくざ映画」に描かれた類型的なものでなく、日常我等が経験し、接触しているような現実感のあるものでなければならない。そして彼等を取巻くやくざ世界の中の人々ももっと人間らしく、ヴィヴィットに浮き出して来る必要がある。やくざ否定映画ではないが、やくざそのものを見る作者の目は何処かに光っていなければならない。

 そういった意味合いから、必然的にやくざの悲劇というものに到達するし、特に男の場合はまだしも、この世界の中で不幸に落ちて行く女の悲劇は、これは作家なら目を逸らしてはならぬポイントである。

 仁吉の妻の哀しみは勿論だが、ホンのささやかな役であるが、つまらない争いのトバッチリをうけた、おつねというワキ役の女などは、この映画では目立たないが、相当大きな支柱になる筈である。と言って話が暗いから作品も暗くなり易いが、それでは困る。やはり「やくざ映画」に期待して入場料を払って見に来てくれる観客の期待を裏切ることは、これは業者としても、作家としても許されないのであって、この点、いかに面白く、キビキビとした、イキのよい作品に仕上げるか、ここにプロ作家の修行鍛錬が要求される所以だが、私のシナリオが、それに成功しているかどうか、それはわからない。