時代劇スターの勤務評定

1.

 ここに一つのリストがある。京都の三撮影所の代表スター(十二人)について、その1959年度(一月以降、十二月末までの期間中に封切公開されたもののみ。但し、年末封切の本年度正月作品は含まれない)の出演作品を一覧表にしたものである。それに更にオールスターもの、もっとも共演作品、単独主演といってもその限界は微妙であり、例えば『新吾十番勝負』は一、二部ともに大友柳太朗が将軍吉宗役で出演しているが、これはほんのチョイ役にすぎず、むしろ大川橋蔵の単独主演ものに数えるべきかもしれない。同様のことが伴淳三郎の『伝七捕物帖・女肌地獄』についてもいえ、これでは伴淳の獅子っ鼻の竹さんはほんの二、三シーンしか出演していないが、これらはいずれもタイトルのうえでの力関係を考えて共演作品のなかに数えている。もっとも伴淳の場合は、『姫夜叉行状記』への出演は嵯峨三智子主演企画への友情出演とみてこのリストから省いた。また、長谷川一夫の『歌麿をめぐる五人の女』などは単独主演に考えてはいるが、タイトルの上でも実質的にも五人の女にふんする女優陣の比重が相当重く、これを単独主演ものとみるにはすこしムリがあるかもしれない。伴淳の『二等兵シリーズ』にしても、アチャコとの共演が呼びものとなっていて、これまた単独主演として考えることに疑問の余地がないわけではない。そのように作品ごとにそれぞれの役の比重や共演者(特に相手女優に大スターを加えている場合)との力関係を点検してゆけば、とうていこの程度の簡単な一覧表で作品を分類することはむつかしい。だからここではある程度の矛盾は承知でこのリストが作成されたものであることを予め御諒解願いたいと思う。

 このリスト、実は大映京撮の鈴木焔成企画部長が、個人的にスター企画のローテーションなどの参考データとして作っていたものを私が借用に及んだのである。そして鈴木部長のリストになかった松竹京都の伴淳三郎、高田浩吉の両スターについてリストCを加えた。私がたまたま鈴木部長の作ったこのリストを一見して、ここからいろんな興味ある現象が抽出されると見たからだ。

Cはカラー作品、最行の和数字は単独主演率、洋数字は単独主演本数。

2.

 先ずリストA、東映の項について見られよ。この七人は、東映が第二東映作品には絶対使わないと言明している七人であり、実によくその持駒をフル回転させていることがこのリストで一目瞭然である。七人の出演作品の本数がほぼ月一本平均で、前後のバランスがよくとれていることだ。もちろん個々のスターの興行価値的にみた比重は必ずしも同じではないであろうが、それを他のスターとの組合わせ(共演もの)などで、興行的にもバランスを保たせている。この辺に東映のスター企画の妙味というものが考えられ、ともかく、「時代劇は東映」のこの七人に里見浩太郎、伏見扇太郎、若山富三郎の主演作品或いは共演作品を加えて、その手駒スターによるバランス・オブ・パワーが巧く計算されているのである。

 出演本数では美空ひばりの十四本が最高であるが、これは現代劇が三本ふくまれており、時代劇の本数では大友と大映の市川雷蔵の十三本が打席数では最高である。月一本平均といっても、実質的に主演級の役処で出る場合は、一本の作品の前後に最低十日乃至十五日の休養と準備の期間を見ると、一人年間八、九本というところが先ず出演本数の限界であろう。だから雷蔵の場合は、その作品内容から考えていささかオーバーワークであり、年間の製作本数が東映の半分である大映であっても、なお一、二枚の働き手がどうしても必要なことがこのリストは示している。

 それにしても松竹の高田浩吉の五本はその人気の軽重は別にしても少なすぎる。一方の伴淳の出演作品がともかく十本をこえているのだから片手落ちをまぬがれず、これでは浩吉が松竹を飛び出す気持も判るというものだ。また、これは数少ない手持スターを使いきれなかった企画のローテーションの拙劣さを物語るものでもある。大映が非力の勝新太郎を使ってともあれ九本という標準本数を消化しているのを見よ。いずれにしてもこの一覧表をみて判るように、一人のスター出演本数の平均は最高十本内外(このリストの一人当り平均は10.5本)であって、如何に量産を呼号しても、それには限界があることをあわせて知るべきである。

3.

 このリストの末尾に付した100分比は各スターの単独主演ものの総出演作品に対するパーセンテージである。ここにもはなはだ興味ある現象が見られる。それは東映の七人のスターの主演作の比率が意外に少なく、大映のそれが意外に多いことだ。東映は七人平均で33.7%でこれは一人が三本に一人しか単独主演ものを撮っていないことであり、しかもこのなかには片岡千恵蔵の二本、美空ひばりの三本の単独主演の現代劇をふくんでいるから、時代劇だけの計算では28%と更に低率になる。これに対して大映の三人単独主演ものの比率は実に77.4%である。

 これは東映のスター企画のスター組合せのうえに成立している場合が多いことを物語っている。東映の時代劇企画には旧作のむし返しが多いとか、ストーリーが千変一律だとかいわれているが、このようにスターの組合せの妙味と、変化と、またそれによる興行価値の評価がたえず考えられていることに注目すべきだ。ここでは大スターの片岡千恵蔵の単独主演企画が僅かに18.2%で、しかもその二本は全部現代劇であって、時代劇の単独主演ものは一本もない。人気随一の大川橋蔵でさえ単独主演作品は25%だ。仮に『新吾十番勝負』の二本を加算しても42%で、出演作品の半数以上が他のスターとの共演作品かオールスターものとなっている。

 時代劇は昔から強烈な個性と魅力を持ったワンマンスターによって支えられてきた映画ジャンルであるとされている。ところが既に時代はそんな甘いものではなくなってきているのである。企業的なそろばん勘定からいっても一人のスターが一本の作品の興行価値を支え得る確率がとぼしくなってきたことであり、劇構成からいっても二人以上のスターの多角的なかみ合わせによってしかドラマとしてのおもしろさが伝えられなくなってきたことである。これはよく時代劇と比較される西部劇が、やはり一人のスターの魅力では作品を支えきれず、二人以上のスターの組合わせによって、そこに興行的にも内容的にも何らかの活路を求めようとしている最近の傾向とも符合する。

 東映の重役スターである片岡千恵蔵が、錦之助や橋蔵の受けにまわり、ひばりの相手役を神妙に勤めているところに一見識がある。それと比較して同じ大映の重役スターである長谷川一夫の77.8%という単独主演ものの比率は何としても高率にすぎる。若手がスターとして上昇人気に乗って単独主演ものを多く撮ることは政策的に肯けないことはないが、もはや芸風も円熟し、人気も固定した大スターは、若いスターを補導する意味でも若手との共演を自ら買って出るべきである。

 もっとも大映の場合には、主演級スターの絶対数の不足ということもある。昨年度はこの三人のローテーションに頼るしか他はなかったから、製作本数と製作スケジュールとの見合いからいっても三人の単独主演ものの本数を多くせざるを得なかった事情を汲んでやらなければなるまい。今年は本郷功次郎の台頭があり、本郷がローテーションに加わるだけでも相当の余裕が生じよう。要するに東映のスター陣の層が厚いことが、各スターの組合わせを楽しくしているのであって、大映の時代劇は、企業的にいえば各スターの単独主演もののパーセンテージがすくなくとも50%以下となったとき、始めて東映時代劇と五分の勝負をいどめよう。企画内容での勝負もそれ以後に属する。

 松竹の伴淳三郎の単独主演ものが70%というのは、それが時代劇でなくて現代劇が主であるだけに一層変態である。十吾や天外の喜劇でさえ今や彼らのワンマン的権威は薄らいできているのである。これは事情や事実はどうであれ、松竹京都が伴淳のワンマン撮影所に化しつつあるという風評の一端をのぞかせるもので、すくなくとも企画の偏向を示す有力な実証となろう。

4.

 別に時代劇とは限らないが、よく撮影所の若手や中堅のスターが、自分の主演企画のすくないことで不平をいい、不満をのべる。自分の社や他社の同クラスのスターとのライバル意識も手伝って、ついよその花が赤く見えるという訳であろう。自分の実力や人気についての正当な判断や評価をもたずに、主演企画のとぼしさを嘆くのである。

 だが錦之助の45.5%、大友の38.5%の単独主演企画のパーセンテージなど立派なものである。またその本数のなかには『男の中の男一匹』のような当人にとっても会心の作品がふくまれ、『風雲六十二万石』といった野心作も数えられるのである。勝新太郎の77.8%というのは長谷川一夫とならぶ最高率のものであり、勝の場合にも『千代田城炎上』とか『鉄火牡丹』のような異色作品を交えている。千代之介の23.1%こそ少ない。しかも単独主演ものはほとんど月間番組の穴埋め用ではないか。これは当人に意欲の足りない証拠である。私は若手スターが会社や企画部に少々うるさがれようと、煙たがられようと、自分の出演企画については積極的に話し合いすることをすすめる。このリストを見ても各スターの個人的な性格が一々の作品に現れているようでおもしろい。やはり自分の企画に意欲的スターが作品にも恵まれている。

 ただし、その場合は、作品の興行的成否にまでも一通りの責任をもってもらいたい。このリストによれば、若手、中堅スターの単独主演ものは錦之助と雷蔵の作品を除いては概して興行成績がよろしくない。橋蔵にしても『紅顔の密使』『恋山彦』はBクラス以下である。映画は一人のスターの力では作られない。そこに難しさもあれば楽しみもあるのだ。私は若手スターがライバル意識は別にして結び合うべきだと思う。

 このリストでは錦之助と橋蔵の実質的な共演作品は一本もない。雷蔵と勝新太郎も『薄桜記』一本きりである。大スターと若手スターとの組合わせもよいが、若手と若手の組合わせ企画がもっとあってよいであろう。それによってドラマの内容に若さと張りが生れてくる。若さと若さの衝突から新しい時代劇の新芽が芽生えてくるのではないか。

(「時代映画」昭和35年4月号より)