雷蔵放談
寄らば切るぞ


粋な娘姿の反逆児=(2)=

「弁天小僧」は男だね

 映画の『弁天小僧』をやったときは、多くのファンから、いろいろとほめられた。ほめられて悪い気はしないねェ、とっても、とっても、いいカーンジ(感じ)だった。でもさァ、なかには“浜松屋の店先の弁天小僧はよかった。雷ちゃんにあんな芝居ができるとは思わなかった。よほど苦心したんだろう”なんていった人もいる。こいつにゃァ、クサったねェ、芝居ができるとは思わなかった −とはごあいさつですよ、僕へのブジョクですよ。僕だって大阪の歌舞伎座や、中座の舞台を踏んだことがある。弁天小僧の芝居に、形をつけることくらいできなくてどうしますか。オヤジ(市川寿海)がきいたら、きっとなげくでしょう。

 でもさァ、この『弁天小僧』で、ファンに僕のことがわかってもらってなによりだと思ってます。ぼかァねェ、実をいうと“白浪五人男”の弁天小僧は、僕の好きな人物なんだ。それでうまくやれたんだろうと思ってるんだ。弁天小僧は悪いヤツには違いないけどどこかスカッとしている。ね、そう思うでしょ、いまでいうなら反逆児、そのうえになかなかユーモアリストだ。娘姿で悪徳商人や大金持をゆすって歩く。そしてかせいだ金はポッポへ入れるんじゃなくて、貧乏な人にばらまく。ユスリ、カタリは悪いにはちがいないけど、ワイロをとって政治をまげる役人や、物資を買いしめて値段をつりあげ、貧乏人をこまらせる悪徳商人にくらべりゃァ、よほどましじゃないですか、だから弁天小僧が、まっかな長襦袢に、サクラのイレズミをしたモロハダをぬいで、キセル片手に大アグラしてさ“知らざァ、いってきかせやしょう”とタンカをきると、大向こうをうずめた見物衆がドッとくるんだよ。悪いヤツだと知っていながら、弁天小僧に味方するんだ。つまり、庶民の悪政に対するいきどおりが味方させちゃうんだなァ、僕がこんなことをいうと、耳のいたい連中もいまの時代にいるだろう。いやゴマンといる。そういうお方たちは、“まァ雷蔵というケチな役者のタワゴトと思って、いずれも、まっぴら、ごめんなすっておくんなさいまし”だ。