雷蔵放談
寄らば切るぞ


京都に昔の床しさを=(3)=

観光客に恥かしいよ

 きょうのぼかァ・・・いや私は、建設省国土開発局長になったつもりで、一言のべたい。オッホン・・・京都へおいでになられた方たちは、この古都の美しさをほめたたえる。たしかに春夏秋冬を通じて、京都の風景は美しいのであります。ある詩人の言葉を借りて表現するならば、冬の夜、くろぐろとしずまりかえる東山のたたずまいは、荘厳だし、春ののどかさはまた格別であります。桜かざして都大路をゆきかう大宮人のむかしも、さぞかしとしのばれるのであります。秋をいろどる嵐山の紅葉はいまさらいうまでもありません。しかし、むかしの京都はいまより数段美しかったにちがいありません。私はいかんながら、戦後派のため、戦前の京都はくわしくは知りません。まして平安のころ、室町のころ、さては江戸時代の京都は、想像するしかはないのですあります。が、それでも当時の美しさ、町なみのおごそかさはわかるつもりです。

 いま、現在・・・三条大橋のたもとにたち、目をつぶると、紅ガラをぬった町家の家なみ、ひときわ高い寺社のイカラ、緑したたる周囲の山山・・・、それらが浮かんでは消え、消えてはうかび、むかしを思わせるのであります。近ごろのような、クモの巣ともみまがう不粋な電線や、やかましい電車、ほこりっぽい街路ではないのであります。

 私はこのようなことを考えるたびに思うのであります。京都が美しいといっても、その美しい場所はごく少なくなったことを。これは悲しいことであります。いまあるものは雑然とした建築、電車の騒音、ほこり、これらが京都の美しさをいちじるしく損ねているのであります。外国からはるばる京都をたずねてくださる観光客などは、まったく気の毒だと思うのであります。このオモチャ箱をひっくりかえしたような町をみて、ワンダフルをさけんでかえっていくのであります。なにがワンダフルでありましょう。

 鋭い観察眼をもたれる方は、少数の史跡などに、往時をしのんで感動するのでありましょう。が、しかし、そのような人はごくまれであります。そこで私は京都の都市計画を根本的にかえることを提案したい。市電は地下鉄に、電線は地下に、そして緑したたる並木を配して京洛の苔むした都大路・・・を再現させたい。こうしてこそ「京都は美しいでしょう」と自慢できるのであります。ほんものの国土開発局長さんは、どうお思いでありましょうか?