雷蔵という男

大映のプリンスといわれる雷蔵君と、芸術院会員であり、人間国宝でもある養父の市川寿海さんが、一つの舞台で芝居をするという。新歌舞伎座は、いままでいろいろと新奇なプランでファンを魅了してきましたが、とうとうその決定版を出したということができるのではないでしょうか。

雷蔵君の歌舞伎に於ける最後の舞台は、昭和二十九年六月の旧歌舞伎座での『高野聖』で、ことしでちょうどマル六年ぶり。私は残念ながら当時の雷蔵君の周囲を知らない。のちになって、仕事の都合でそのころのことをいろいろ調べたことがありましたが、人間的な問題はさておいて、結局は歌舞伎という定型化された世界から、自由に創造ができる世界、そして自己を主張できる境地として映画を選んだと見るのが正しいと感じたことでした。

スクリーンに出る雷蔵君は素晴らしく魅力的です。キリリと締まったイイ男。つまり典型的な二枚目(自分でもそういっているそうだ)で、それがまたメツ法強く、雷蔵扮するヤクザ、若侍が登場すれば、たちまち悪人共が退治される。まことに胸のすくような勧善懲悪のストーリーは、実質的には同巧異曲のつまらぬ内容であるかも知れませんが、雷蔵君の人間的フンイキが、そういったつまらぬストーリーとは無関係に、いつもきわめて新鮮でイキイキとしているということです。ちかごろは『炎上』『ぼんち』と現代劇映画の主人公になって独自の境地を開拓していますが、私たちには、やはりスーパーマン雷蔵に、たのしい快感をおぼえるのです。

私は雷蔵君が自己を主張する男とのべましたが、それを発見したのはシナリオ・ライター依田義賢氏との次のような対話を知ってからです。

「歌舞伎といわず、現代劇にもすでに型がつくられているんです。型が出来ても別に不思議はないんですが、つまり劇の構成も、感情のとらえ方も型にはまっている。それにセリフも・・・・Aという主役がどうしてもこうならねばならんと思うのに、自分の性格でないこともせんならん。性格の出しようがない。演技者は何とも知れないものにあやつられている人形みたいなもんですよ。だからボクは思うんです。ボクはボクでまた別の新しいものを創ってゆけばいいと思う。大映の俳優だから長谷川一夫の芸を踏襲するなんてのは、ゼンゼン面白くない」と。

まことに大胆な発言ですが、この中に雷蔵君の今日のすべてが含まれているといっていいようです。

ところで雷蔵君のいいところは、そういった率直さ。思ったことを何でもズバリと言ってのける素直さです。(もっとも、そういった態度は時に傲慢のそしりを招くわけですが)この公演の話が出た三月ごろ、撮影所に雷蔵君をたずねますと、例の調子で“別に舞台に出たいとは思いませんね”と至極アッサリしたもの。映画スターの舞台出演がさかんになってきている時期だけに、いかにも雷蔵君らしい反骨とうけとったのですが、このときいっていた“オヤジと一緒ならやってみたいですね”がとうとう実現したわけです。

毎年八月休養することに決めている寿海さんを引っ張り出した雷蔵君の主張は立派の一語につきますが、私はここに雷蔵君が養父である寿海さんに対する甘えをみつけたのです。舞台六年ぶりの雷蔵君にとって、寿海さんは素晴らしく力強い心の柱であるにちがいありません。

久しぶりの舞台に、何かを創造しようとする好漢雷蔵君に心からの期待と拍手を送りたいものです。(昭和35年、産経大阪新聞文化部記者・山本清)