その松原が、五月の昼下り、心斎橋の人ごみのなかで女優の藤村志保を見つけた。久しぶりの出会いだった。

 「どないしたんや。大阪に仕事かいな」

 藤村は、市川雷蔵の映画上映会の挨拶のために大阪に来たというのであった。これから会場のキリンプラザに行って、雷蔵と共演したころの思い出話をするという。

 「こうして松原さんと偶然にお会いできたのも、雷蔵さんの引きあわせかもしれませんね」

 ふたりは人混みのなかで、しばらく雷蔵の思い出にひたった。松原は、藤村に誘われて心斎橋の一角にあるキリンプラザにはいっていった。

 百五十人ほどがはいる会場は満員だった。意外に若い世代が多い。雷蔵が死んだころに生れた世代である。雷蔵人気は次の世代に着実にひきつがれている。そのことに松原はおどろいてしまった。五月十七日から二十五日まで、一日に平均して三本、つごう二十三本の映画を上映するという。初日の一回目の映画は、市川崑監督の『破戒』であった。昭和三十七年の映画だった。

 <ああ、あのときは編集に手まどったなあ。結局、上映日の明け方にフィルムができてあわてて映画館にはこんだものだった>

 松原は、そのときの雷蔵の不安な表情が思いだされた。藤村が、舞台から雷蔵の人柄を語った。雷蔵さんという人は人間的にすばらしい人でした、私はこの作品によってデビューしたのですが、雷蔵さんにはいろいろな助言をいただきました、こと仕事に関しては納得するまで徹底的にとりくむ人でした、と藤村はとつとつと語った。

 その話を聞きながら、松原は雷蔵の言葉を思いだしていた。雷蔵は製作部にしばしば顔をだしては、松原と雑談にふけった。そんなときに次のようにつぶやいたのである。

 「松原さん、人の命は短いかもしれんが、芸というのは長いものですよ。映画というのも人の命をはるかに越えてす末長く伝わるものですよ。だから手抜きなんかできません」

 その目は真剣であった。自分は出ずっぱりの状態だが、手抜きなんかしてないぞ、といっているようだった。次から次に企画が手わたされても、「とにかくすこし休みたいなあ」ということはあっても、ひとたび撮影にはいるとグチをこぼさずにカメラの前に立つのである。

 松原は製作部長として、スターたちのファンクラブにでかけて挨拶をすることがあった。雷蔵のファンクラブにもなんどかでかけた。ファン層は他のスターとは明らかに異なっていた。

 「むろん女性が多かったが、大体がインテリでしたね。雷ちゃんの演技に惚れ、その人間性に魅かれているという感じだった。ちゃらちゃらした女性がいなく、キャーキャーとさわぐようなタイプなど見あたらなかった。私は、雷ちゃんのなかにカゲのようなものをいつも見ていましたけど、女性ファンもそういうところに魅かれていったんでしょうな」

 松原に雷蔵の思い出話をさせると際限がない。次から次に記憶がよみがえってくる。もし雷蔵がもうすこし長生きしていたら、大映もあんなにあっさりとは倒産しなかったかもしれないとグチった。なにしろ京都撮影所は月に三億円(当時)の経費を必要としていたが、そんな売り上げなど雷蔵の映画はすぐに稼ぎだしてしまったというのである。

 「そういえばこんなことがあったなあ」

 と松原はいって、雷蔵の意外な面を語りだした。

 「雅子さんは社長の永田雅一の養女でしたが、雷蔵は雅子さんと結婚することになって、私のところに妙に固い表情になってたずねてきたことがある。こんど私も社長の縁つづきになるんだが、この会社というのは一体経理はどうなっているのか、そこをくわしく教えてくれ、というんです。そこで私は、映画会社の経理システムや製作のこみいった仕組みを教えましたけど、雷蔵はそういう専門用語をすべて知っているんです。彼は、あの忙しいときにこっそりいろいろな本を読んでは勉強していたんだね・・・」

 雷蔵は自らが演じるだけではなく、いずれは映画会社そのものを経営してみたいと思っていたのかもしれない。松原は、雷蔵が本心では何を考えていたのか、実はいまも誰も知らないだろう、それほど彼は多面性のある役者だった、というのである。