二、

  朗雷会という、市川雷蔵を偲ぶ映画ファンの会がある。この会の代表は、薬剤師の資格をもち、東京・新宿で薬局を経営していたこともある石川よし子である。いま六十五歳。市川雷蔵の出演した映画−百五十四本のすべてを観ている。雷蔵映画のストーリーのすべてをそらんじていることでも有名だ。

 石川が、雷蔵映画を初めて観たのは昭和二十九年の秋だった。薬科大学の学生だった。化学実験では時間がしばしばあく。実験結果がでるまで時間つぶしをしなければならない。石川はいつも映画館にはいった。そこで観たのが、木村恵吾監督の『千姫』だった。千姫が京マチ子、市川雷蔵は豊臣秀頼の役だった。が、雷蔵の出演シーンは、最初の大坂城落城までのわずかなシーンであった。

 石川は、市川雷蔵という役者に興味をもった。この作品が三作目と知った。秀頼は秀吉の子でそれなりの環境で育っている。風格をもっている。だが大坂城を枕にして討ち死にするという薄幸の将である。これを雷蔵は見事に演じていた。それまでの時代劇スター、たとえば片岡千恵蔵や市川右太衛門、長谷川一夫などはこうした薄幸な役を演じることができない。これは新しいタイプの時代劇スターになると、石川は思った。その後、つづけて雷蔵の映画を観た。『次男坊鴉』『次男坊判官』。遠山金四郎をすこしコミカルに演じていた。

 この役者はどんな役でもこなせる、というのが気にいった。もともと石川は目利きの歌舞伎ファンだった。十五代市村羽左衛門(1874-1945)のファンで、中学時代から歌舞伎座にかよい、かぶりつきで観ていた。かぶりつきで観たあとは、立見で羽左衛門の出演する場面だけ観るのが楽しみであった。このころ羽左衛門は七十歳になろうとしていて、かぶりつきで観ると身体のしわがよく見えた。しかし、若衆でも助六でも、与三郎でも、直侍もできた。石川にとっては華のある役者であった。羽左衛門は、昭和二十年に信州の疎開先で病死している。

 市川雷蔵に魅かれたのは、羽左衛門につうじる何かが感じられたからだった。羽左衛門が死んだという報に接したとき、石川はもう歌舞伎を観るのはやめようと決めていた。その羽左衛門に匹敵するスターが、やっと目の前にあわられたと思った。石川は、羽左衛門につうじる何かというのを「卑しさ」がないということだと考えた。役者は流し目をするが、そのなかに必ず媚びがある。だが雷蔵にはそれがない。演技のうまいへたよりも以前に、シーンごとの表情が実にいい。その表情のなかに雷蔵というスターの人間味がたっぷりとつまっていると、石川思うのだ。

 眠狂四郎シリーズには、雷蔵のかかえこんでいる虚無がひそんでいる。このシリーズが人気のあったころ、高校生は「ああいう映画は観に行ってはいけない」と禁止されたいた。ところが最近になって、このシリーズが深夜映画でも観られるようになった。それで改めて雷蔵ファンになる中年女性がふえているという。石川は眠狂四郎ファンなのだが、狂四郎を真に演じられるのは雷蔵しかいないと思う。雷蔵の演じる狂四郎は、柴田錬三郎の原作よりもやさしい人物になっている。悪は憎むが、心のやさしい人にはやさしさを示す。ここに雷蔵の人間性が凝縮されていると石川はいうのだ。

 生前、石川は雷蔵に会っていない。私は、スターのあとを追いかけ回すミーハーとはちがう、という誇りがあったからだ。しかし、あれほど早く逝ってしまうのならいちどは会っておくべきだった、といまとなっては後悔もしている。

 雷蔵が死んで七年が経ってから、石川は雷蔵映画のファンだった予備校生と女子大生の三人で、「市川雷蔵を偲ぶ会」をつくった。しだいに雷蔵映画が観られなくなるので、このような会をつくれば上映するテレビ局もあるだろうという計算があった。新宿のロマン劇場で、雷蔵七回忌にちなんで一週間オールナイトで雷蔵映画が上映されることになった。石川は連日新宿でビラまきをつづけた。ぜひあなたも若くして逝ったこの不世出のスターの映画を観てほしい、というのであった。

 

 

 会員もふえた。十七回忌(昭和六十年)には六百人にもなった。だが上映運動を盛り上げることができたというので、ひとまず解散することになった。