市川雷蔵さん暮しの手帖

その人柄

昭和六年八月二十九日京都に生る。本名を太田吉哉といいますが雷蔵さんほど沢山の名前を持たなければならなかった人も珍らしいでしょう。−亀崎嘉男、市川莚蔵、太田吉哉、市川雷蔵と、四つの名前に連がるその生い立ちは、いささか複雑ですが、簡単に説明すると−まず、生れ落ちるとすぐ京都市中京区西木原町に住む伯母夫婦のもとに貰われ、亀崎嘉男として人生のスタートを切りました。しかも養父が市川九団次さんという関西歌舞伎の俳優であったため、生まれながらにして芸能界に生い立って行くべき、その第一歩を踏み出すことになったのです。

五歳の頃、室戸台風によってすっかり荒された西木屋の家をあとに、大阪市上本町八丁目へ転宅、大阪桃ケ丘小学校を経て天王寺中学に学びましたが、戦争中のこととて空襲を避けて一家はふたたび京都へ帰り、五条大橋の近くに住むことになりました。その結果大阪までの毎日の通学が大へんで、ついに二十二年、三年で中学を止めました。

関西歌舞伎の初舞台は、二十一年秋、十六歳の時で、三代目市川莚蔵の芸名で大阪歌舞伎座公演の『中山七里』に茶屋娘お花の役をつとめています。しかし昔から歌舞伎の世界には門閥というものがあって、名門の出てないものには、たとえ実力があっても身分相応の役しか廻ってこないという古い因襲から、もとより名門の出でない九団次夫妻は、雷蔵さんの出世を考えて苦心すえ、関西歌舞伎の大御所の市川寿海のもとに養子縁組させることになりました。

ここでふたたび新しい養父母に迎えられた雷蔵さんは、太田家へ養子として入籍するとともに、姓名判断に基ずいて、本名も嘉男から現在の吉哉に改名、また芸名も七代目市川雷蔵を襲名しました。襲名披露は二十六年六月、大阪歌舞伎座での『白浪五人男』の赤星十三郎においてであります。

映画入りは二十九年の七月、大映と三本の本数契約のもと『花の白虎隊』でデビュー、『幽霊大名』『千姫』に出演したあと、新東宝の『お夏清十郎』でひばりちゃんと共演、それ以後は専ら大映に専属して現在に至っています。その間、故溝口健二監督の『新平家物語』で青年平清盛を好演して、代表作の一つとしましたが、最近では『大阪物語』『朱雀門』『浮舟』『鳴門秘帖』と打続く大映の大作物に連続出演して、大いに演技向上に磨きをかけるとともにファンの人気もとみに上昇してきました。

さて以上が雷蔵さんの簡単な生い立ちの記ですが、次にその人柄を、最近のニュースを通じて述べてみましょう。