俳優として初めて講師に招かれた大映スターの“日本映画論”

 同志社大学では、「アッセンブリー・アワー」という特別講義を毎週水曜日におこなっている。学外から講師をまねき、専門の話をきくというものだ。これまでに、桑原武夫、野間宏、成田知巳、松下幸之助氏ら、各界の権威者が講師になっているが、四月二十八日には、映画俳優としてはじめて市川雷蔵が“人間が人間を創造するとき”というテーマで特別講義をおこなった・・・。

 「“スター千一夜”に出た雷蔵さんの話をきいたときかなりとかもちろんすこしということばが多かったので、今度もそうかと思ったら・・・」

 同志社大学栄光館(講堂)における市川雷蔵“先生”の“お講義”はあんがいだった。

 「題名が“人間が人間を創造するとき”なんてシャレているし話もユーモアがあってなかなかおもしろかった。雷蔵さんはすごくインテリで誠実な感じの人でした」(木曽雅子=18歳・文学部美術専攻)

 いつもはガラあきの栄光館千八百の席も、この日ばかりは後ろのほうにあふれた聴衆が立ってきくという“近ごろの映画館には見られない”大盛況。学生は同志社学内だけではなく、傍系の同志社女子大からも付属の高校からも押しかけた。その一人、女子大英文科三年の小宮あけみさん(21歳)は、

 「私は中、高校生のころ雷蔵ファンだったのでもぐりこんできいてみました。それに題名が大げさなので、いったい雷蔵さんが俳優の立場からどんな話をするのか興味があったので・・・」

 といっている。ともかく大入り満員のうちに市川雷蔵先生は講壇に登った。ダークグレーの背広にうすいブルーのワイシャツ。しぶいななめじまのネクタイをつけ、メガネをかけた姿はなかなかスマート。

 「本学と私の関係は、ただいまご紹介いただきましたように、いまから八年前、私がいささかからだをきたえておきたいと考えましたおり、こちらのレスリング部、さらに相撲部のみなさんのお世話になったことがありました。このとき、稽古のあとの汗を洗い流すためにと思い、お風呂場を寄付させていただきましたのが機縁で・・・」

 この風呂場の建築に50万円以上も寄付したとのことだ。この風呂場の件をまくらに講義は本論にはいる。

 「ある映画人は、映画とは誤解の芸術であるといいました。まず、プロデューサーが考えた企画を、脚本家が誤解する。あるいは、ある原作を脚本家が誤解する。そのシナリオを監督が誤解する。さらにその監督の演出プランや演出指導を、俳優が誤解する。最後にできあがった作品を批評家や観客が誤解する。いうならば“映画とは誤解の芸術である”ということです」

 講堂に笑い声があふれる。客−ではない学生は、男六分に女四分。かなりにぎやかな笑い声である。朝からの交通労組のストにもかかわらず、つめかけた学生たちは、きき方も熱心でいつもだとアクビをしたり私語したりでダレ気味なのだが、そんな不真面目なのはきょうはひとりもいない。なかにはメモをとる女子学生もいる。雷蔵教授もごきげんで話をすすめる。

 「このように大勢の人たちの“誤解”が集積して完成した作品は、あるときは当初の意図とはずいぶんかけはなれたものとなり、プロデューサーを失望させることもありますが、またあるときは、プロデューサーが最初考えもしなかった点がみごとに描かれていて、意外にすぐれた作品になる場合もあります。このあたりが総合芸術と称する映画づくりのむずかしさであり、また新しいさであるわけです」

 総合芸術の“総合”とは誤解の総合であるとも、誤解こそ、危険はあるにせよ、新しいものを生み出す力であるとも受けとられる論旨。

 いちおう、問題設定が終わると、雷蔵先生はひとわたり例をあげる。アブストラクト美術、電子音楽などは誤解したくともできないという話から、アート・シアター系で封切られる『野望の系列』は“成人向き”とタイトルが出るが、米国議会政治を真っ正面から取り上げた野心作だから、日本では子供ばかりか一部の大人にも正解はむずかしかろうとか、例の『東京オリンピック』にも言及したが、“河野国務相がどのように理解されたのかが問題、そのような問題は劇映画にもある”といったところで序論は終わった。