俳優として初めて講師に招かれた大映スターの“日本映画論”

誤解の集積が映画芸術だと論ずる市川雷蔵氏

雷蔵教授の当日の演技力

 「黒沢明監督が会社から作品(『白痴』)長すぎるからカットするようにいわれたとき、切るならフィルムを縦に切ってくれといわれたのは有名なお話ですが、これなどは会社側が作品を長すぎると感じても、黒沢監督はそう思われなかったのだと思います。このように、映画というものは、各スタッフが百パーセント満足したという作品はきわめてマレであるわけです。ユル・ブリンナーが『あしやからの飛行』で私たちの撮影所へきたとき、新聞記者がインタビューで“いままでいちばん気に入った作品は”と質問したところ、彼は“ネクスト・ワン”つまり、つぎの作品だと答えたそうです。彼自身、いままでの作品には、百パーセントの満足を持っていないという表現だと思われます」

 雷蔵教授の趣旨は、本物教授のように、理論明晰とまではいかないが、俳優市川雷蔵の演技力がそれをおぎなって、相当な説得力を発揮している。

 ここで講義はつぎの段階にはいる。この誤解の集積で、大勢の不満のかたまり場である映画の中で、市川雷蔵という人間がどのようにして一人の人間像を創造してゆくかについて、つまり題名の出どころ、本講義の眼目にはいったわけだ。

 −俳優の演技というものは最近、世の関心の対象になり、毎年演技賞がだれかれに贈られる。なかでも有名なのはアメリカのオスカー賞である。青銅製金メッキのこの賞は、いまや世界的な名誉となっている。

 これについてある監督がこんなことをいった。“俳優は演技賞をもらうが、そのうち何パーセントが俳優自身の演技で、何パーセントが監督の演出かわかっているんだろうか”と。

 たしかにこのとおりで、監督には演技プランがあり俳優には演技プランがある。脚本を受けとったとき、両者は、おのおのの立場から人間創造を具体的に進めてゆく。その両者の中間に、映画の人間像が生れるのである。しかし、演出と演技のパーセンテージはさまざまである。・・・たとえば−

 「衣笠貞之助監督の場合は、一切を監督さんにまかせきりですから、演技者は白紙で現場にのぞみ、ただその指示どおりに動くというこtが多いようです。反対に故溝口健二監督は、まず何回もテストをやらせてみて、徹底的にしぼられますから、演技者としては自分なりのプランを大いに要求されるわけです」そして、「最初に申し上げたように、脚本を誤解することは監督も演技者も同じであります」

 誤解した同士がひとつ仕事をはじめて満足できたら奇跡というべきだろう。しかも俳優にはもうひとつの使命がある。

 「脚本を理解し、監督の演出プランに共鳴できても、つまり頭でいかに理解しえたとしても、やってみる技術がないと演技者としては成立しません」

 その技術も監督のいうとおりにやり、自分の思うとおりにやれるだけでは足らない。

 「監督からひどくたたかれ、しぼられるほど、たとえばしずくの一滴でも余計に出るという余裕が、演技者には必要であるというふうに考えております」

 オーケストラが指揮者によってちがった音をだすように、俳優もちがった監督によって新しい自分を出せるようでなければならないというわけだ。