俳優として初めて講師に招かれた大映スターの“日本映画論”

超満員の聴衆を集め、見直したという声もきかれた(同志社構内で)

ヒットした『忍びの者』の場合

 しかし、そのような演技を、どうやってつくるか。

 雷蔵先生はこれを現代劇の場合と時代劇のそれに分けた。

 まず現代劇では、

 「現代劇の演技づくりの場合はひとつの作品の一人の主人公を創造するときにだけ勉強するというのではなく、日常生活における見聞や経験が大きなポイントになりますが、またある程度、教えを乞うたり、モデルをみつけることもできないではありません。私たちのモデルは、たとえば電車の中、百貨店の中のようなところに無数にいるわけで、日ごろのこういう細かい観察が大いに演技づくりの基礎になっているわけであります」

 これに対し、時代劇の演技はどうか。

 「時代劇の世界は私たちが一度も経験したことのない未知の世界ですから、残っている絵画や記録や伝説にしたがって、いろいろと空想したり想像したりしてやるよりほかにありません。つまり、その時代の政治、風俗、約束ごとを知り、それを背景として現代の観客に共感を得る今日の人間を創造するのが、時代劇における演技づくりだと思います。そうした時代劇における演技づくりは、時代劇のウソといってもよいと思います。この場合、約束ごとを知っていて改変するのをテクニックといいますが、知らずにやっているのは改変とはいえませんからゴマカシ、デタラメといわれてもしようがないと考えております。

 ただ時代劇の場合、脚本においても、演出においても、演技においても史実を変えることがあります。この場合、史実は尊重するが、それはあくまで映画をつくるための史実であって、史実のための映画ではございません。史実は映画のための材料の一部であって、全部ではないと考えているのです。たとえば、私のやりました『忍びの者』の主人公石川五右衛門は、いったんは捕えられて三条河原で釜煎りの刑に処せられたわけでありますが、これが興行的に大ヒットしたことから、さらに続編を製作することになり、生きかえったわけであります」

 市川先生は、『赤穂浪士』に出ている千坂兵部は、じつは討入り一年前に死んだ人だとか、銭形平次は三代将軍徳川家光のころから幕末まで活躍しているとか、釈迦の時代にはすべて木造建築だったが、映画では石造りの宮殿が出る、などなど例をあげて、最後に結論した。

 「“講釈師見てきたようなウソをいい”といいますが、そんなウソがつければ本物だと思います。それがたとえ絵ソラごとであっても、見るものに深い感銘を与えるようなら、それは名画だし、名演技だと思うのです。こうした時代劇のウソは、文化が進めば進むほど人間が求めてやまないものではないでしょうか」