章雄・嘉男・吉哉そして雷蔵
−37年の短い生涯を駆け抜けた雷蔵。章雄・嘉男・莚蔵・吉哉、どんな時も彼は真摯に生きた。−
はかないことの譬えに「銀幕の恋」という言葉があった。美男スターが微笑みかける。われを忘れて笑みを返すと、エンドマークが写り、場内が明るくなる。お腹の虫がキューッと鳴って、美男スターへの純愛どこへやら「帰りはアンミツにしようかしら、お好み焼きがいいかしら」・・・・となる。
それを思い合わせると、市川雷蔵の人気は、異様というほかにない。昭和四十四年七月十七日に死んだが、二十余年を経た今日なお、新しいファンが増えている。
新聞の切り抜きを辿ってみると、雷蔵ブームは、どうやら十年周期で噴出するらしい。死後十年の昭和五十三年、東京で「雷蔵を偲ぶ会」というのがあって、市川雷蔵賞というものを設定、撮影技師の宮川一夫に賞を贈っている。この会は、東京・上落合の薬局店経営・石川よし子という人が会長で、会員四百六十人。その大半は二十歳前後の女性で、最年少は十二歳だと、紹介されている。いずれにせよ、雷蔵生前の華々しさを知らない会員が多数派なのである。さらに約十年後の平成三年五月に、大阪・心斎橋のキリンプラザ大阪の六階ホールで「RAIZO’91」と銘打ち、雷蔵主演映画四十四本を四日間にわたって集中上映して、ほぼ満席という興行成績を収めた。続く平成四年には更に規模を拡大「RAIZO’92」として、大阪・上六の近鉄小劇場が、雷蔵映画三十五本を、八月十日から二十一日まで、十二日間にわたり、総入れ替え制で一日五本ずつ上映している。入場料一回千二百円。五回綴りの回数券や、いつでも入場できるフリーパス券二万円まで発売した。
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市川雷蔵の何が、かくも魅惑なのか。もちろん答えは多様だが、おおよそには分類できる。
第一の分類。白馬にまたがる美剣士のイメージ。桜花の下を駆ける凛々しさ。「鞍馬天狗」の世界。
第二の分類。逆境にあっても、魂の清らかさを失わない若武者の高貴さ。桧の、さわやかな香り。「若き日の信長」「忠直卿行状記」の世界。
第三の分類。明るい顔立ちの中に、淋しい翳。虚無とそして一抹の哀愁。晩年の「眠狂四郎」の世界。
−以上になろうか。
序でに、スクリーン以外につきあっている人たちの雷蔵評を記すると、
曰く。計算の男(昭和44年8月2日号、週刊新潮)街を歩く姿は銀行マンに近い。女遊びせず、酒・煙草ほどほど。結婚相手に永田雅一・大映社長の養女を選ぶ。
曰く。理論家。(シナリオ作家・八尋不二著「百八人の侍」)何にでも一理屈なくては済まぬのである。(略)或いは政治家になるべきであったかも知れない。
−ということになろうか。撮影所関係者の異口同音にいう雷蔵評は、映画スターらしくない生真面目人間である。
雷蔵を一枚のスチール写真で見る限り、美男子ではないが、映画で見ると、水もしたたるよう。つまり完全に二枚目なのだが、それでいて最も力量を発揮するのは「炎上」「新平家物語」の劣等感の表現であった。相反するものの同居している複雑さが、実は雷蔵をして、死後なお新しいファンを獲得させる魅力、近代性なのである。もとより単に美男であるだけではスターになれない時代ではあるが、この雷蔵の屈折した性格は、では何に由来するのであろうか。解く鍵は、出生にさかのぼらねばならない。
昭和六年八月二十九日に、雷蔵は出生した。役所に届けだされた名前は、亀崎章雄である。ところで、雷蔵が出生時の名前を、亀崎章雄と知るのは、ずっと後の昭和十九年三月、大阪府立天王寺中学校を受験する時であった。志願書類には戸籍謄本がいる。雷蔵は、その時まで、自分を竹内嘉男という名前だと、信じ切っていたのである。
亀崎章雄 ・ 竹内嘉男 後さらに、大田吉哉という名前に変わるのであるが、それはさておいて、二つの名の違いは、実父母だと信じ切っていた父母が、養父母だったことによる。養父の名は竹内嘉三。関西歌舞伎の脇役俳優の市川九団次が、雷蔵を生後六か月から、まったくの実子として、いつくしんでくれていたのであった。小学校六年生の可愛がられて育った独りっ子が。偶然かいま見た深淵 − 自分の出生に秘密があると気づいた時、父母に「なぜ?」と、どうして問いただすことができよう。雷蔵は、咽喉から出かかった「なぜ」を押し止めた。理由があるに違いない。しかし理由とは、一体何だろう。 - 口にしてはならないことだけは子供心にも、はっきり判った。雷蔵(嘉男)は気づかぬふりをする。気づかないふりのままで、一生を過ごせるものなら、それでいい、と心にきめる。まま親ではない。本当の親としか思えなかったからである。秘密が氷解し、生みの母と対面することになったのはそれから二十年後のことである。
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実の父母と信じていた親が、実は養父母であったとしても、雷蔵の少年時代が不幸であったということにはならない。逆に溺愛を受けて育ったようである。
雷蔵はあまり過去を語らない人であるが、珍しく、後援会の機関誌「よ志哉」の昭和33年秋号に、地蔵盆の思い出を綴っている。
地蔵盆というのは、毎年夏休みの終り頃に町内ごとにお地蔵さんをお祀りして、子供たちばかりで、その供物をいただいたり、縁台で余興をしたりして、一日をたっぷり楽しむ関西独特の風習なのです。当時、上本町(註=大阪市天王寺区)の七丁目に住んでいた私たちの近所は四十世帯ばかり、親たちも子供たちも親しくつき合っていて、地蔵盆も盛大でした。この地蔵盆で、私が縁台に上がって、今は亡き養父母が買ってくれた紙芝居を、少年少女たちの前で得意になって、演じたものでした。・・・(略)・・・養父母は、いつも口癖のように、私が無事息災に通学できるのも、お地蔵さんのお蔭だと私にいいきかせていたことなど思い出は尽きません。
この小文は、NHKのテレビ番組「私の秘密」に出演して、雷蔵の熱弁になる紙芝居を見たという幼な友達と対面した報告記録なのだが、人生に対する懐疑など一かけらもない明るい少年時代を想像させる。
学校の成績も、よかったようだ。なぜなら桃ケ丘小学校を卒業すると、天王寺中学校に入学しているからである。大阪で天中といえば、北野中学と双璧の、秀才集まる名門校であった。同級生・但野道臣によれば、中学時代の仇名は「お嬢さん」だったという。入学時は昭和十九年。太平洋戦争の末期で、田中栄一郎校長は「男らしく堂々と闘え」と朝礼に訓辞していた時代だから「お嬢さん」では具合が悪いはずだが、硬派の生徒から別段いじめられていた記憶がないというのも、内面に芯の強さを秘めていたからだろうと、同級生は語っている。
この中学時代に雷蔵は自分の進路を決めた。自分の親が、実の親でないことを知って以来、わだかまっていた気持ちの悶々を、恐らく、ふっ切ったのであろう。中学三年を終えた時点で退学した。従って雷蔵の最終学歴は、旧制中学三年中退ということになる。昭和二十二年三月のことである。同年四月から、六三学制が発足して男女共学になった。雷蔵は偶然、六三制を拒否する形で学校をやめた。やめた理由は、養父と同じ梨園の道を歩むためで、役者に学問は不要と割り切ったのである。そして初舞台を八か月後の十一月に踏む。大阪歌舞伎座の関西歌舞伎公演。「中山七里」の娘のお花。芸名は養父の若い頃の名・市川莚蔵を名乗る。
一般に歌舞伎役者の場合、初舞台は早い。雷蔵と同年生まれの三代目中村雁治郎は、昭和十六年、満九歳である。いわゆる子役として初舞台を踏むのが例だ。雷蔵は十七歳になっていたから、子役ではない。さりとて若手というには若い。変声期の中途半端なスタートである。しかし敢えて、雷蔵は自分を賭けた。養父・市川九団次は、脇役の役者。いわゆる「三階さん」と呼ばれる階層である。現代教養文庫「市川雷蔵かげろうの死」( 田山力哉著・平成2年刊 )によれば、九団次は、京都市会議員の子であったが、役者にあこがれて上京、市川左団次の門に入り、市川莚蔵の名を貰った。大正初期に京都に帰って、中村扇雀( 二世・雁治郎 )の青年歌舞伎に加わり、以来ずっと関西歌舞伎の脇役専門役者として歩み続けたという。
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歌舞伎の世界は階級制度が厳然としていて、劇場の表正面に名札が掲げられる名題役者でないと一人前でない。楽屋が、女形は中二階、脇役は三階にあって、またの名、大部屋と言う雑居であった。とはいっても、老巧な連中は、古い型や約束事を熟知しているから、御曹司の名題役者が教えを乞いにくる。三階さんが手とり足とり、後見しなければ、幹部俳優は、初役の狂言を演じることができないのである。しかし対外的には、影の存在にすぎない。三階さんとしての養父を、雷蔵は敬慕していた。だから、同じ道を選んだ。三階さんの子が役者になっても、三階さんで終わるのが、通例であることを、雷蔵は知らなかったわけではない。反対に、養父・九団次のほうは身に沁みていた。だから、梨園でない道−中学校に雷蔵を進ませた。しかし雷蔵は、養父の敷いてくれた道を振り捨てて、養父と同じ下積みの道を選んだのである。実の父でないことを自覚した時以来、雷蔵は、養父を、実の親として考えようと、心を固めたと考えられる。実の親子となる唯一の方法は、同じ道を歩むこと以外にないのだから。
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脇役俳優の子が役者になったところで、世間が注目するわけはない。雷蔵の初舞台−昭和二十二年十一月、「中山七里」の茶店の娘お花は、せりふのない端役だがら、新聞雑誌の劇評の対象外。どんな初々しさだったのか、調べる手がかりはない。歌舞伎界は過渡期を迎えていた。23年3月18日 三世梅玉歿。 24年1月27日 七世幸四郎歿。 24年3月2日 七世宗十郎歿。 24年7月10日 六世菊五郎歿。相次ぐ名優の死は、新しいアイドルを求めた。これに応えて 22年1月 翫雀の二世雁治郎襲名。 22年2月 菊之助の七世梅幸襲名。 24年7月 寿美蔵の寿海襲名。 があり、二世延若が二十四年五月に東上して「楼門五三桐」で“ 最後の上方役者 ”という絶賛を受けた。だが、戦災による劇場数の減少が公演の機会を狭めていた。役どころを、四十歳以上の中堅にくばると、もはや十代である雷蔵=莚蔵に出番はなかった。辛うじて莚蔵と同じ立場の、大部屋の若手十数人で勉強会を持つことが許されただけだったが、ここで莚蔵は、伯楽を得る。勉強会の名は「つくし会」。メンバーは、後に映画に転じて北上弥太郎となった嵐鯉昇(吉三郎の子)、ほかに中村太郎(成太郎の子)、中村紫香(霞仙の子)ら。二十四年五月二十二日に、千日前の料理屋の二階で、第一回脚本朗読会を開いた。莚蔵は「曽我対面」の十郎を朗読したが、これを武智鉄二が高く評価した。
・・・・・天来の美声というか、その整ったイントネーションに、すっかり魅せられ、私にとって忘れられぬ役者になってしまった・・・・・。
雷蔵の追悼文集(「侍 − 雷蔵その人と芸」昭和45年、ノーベル書房編)で、武智鉄二は、その時の印象を上のように書いている。
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武智鉄二。昭和六十三年七月二十六日、七十五歳で逝ったこの人の名前は、ストリップ能、映画「黒い雪」わいせつ裁判などで、晩年は偏狂扱いされているが、戦後間もなくの頃は、演劇革新の輝ける旗手であった。簡単に前半生を述べる。
大正元年、大阪市生まれ。京都大学経済学部卒。父は建築技師で「武智式基礎工事法」の特許を持ち、戦前の金で三千万円の財産があったが「おれ一代で作った金だから、長男の鉄二が全部使ってしまえ」と言った。訓誡通り武智鉄二は金を浪費し、速水御舟の絵を買いまくった。一本五百円の軸が、御舟ブームで万円の値がつく。減らすつもりの財産が逆にふえたので、昭和十九年五月から二十年八月まで、断絃会という、古典芸能鑑賞の集まりを作った。能・舞踊・音曲の凡そ一流人ばかりを、大金を払って招いて、無料で会員に見せたのである。谷崎潤一郎や吉井勇は、その熱心な会員だったという。二十年Z月の山城少掾を聞く例会は、開会ただちに米軍機が来襲したが「聞きながら死ぬなら本望」と、会員の誰ひとり避難する人がなかったという話も残っている。この費用を武智ひとりで自腹を切った。断絃会でつながりをもった一流人たちへの顔と、資産と、そして、その頃まだ露出的でなかった演劇理論とで武智鉄二は、歌舞伎の実験劇場をプロデュースした。
これが世にいう「武智歌舞伎」である。第一回公演は二十四年十二月七日から十日間、四つ橋の大阪文楽座で開かれた。出演したのは、関西歌舞伎の若手ばかりである。当時若手というと、最右翼が坂東鶴之助(市村竹之丞を経て五世中村富十郎)で、あと中村扇雀(現在の中村雁治郎)、実川延二郎(現在の三世実川延若)という名門の御曹司を指していた。莚蔵らの「つくし会」の連中はここでも、その他大勢となるべき運命だった。だが、武智鉄二は、実験歌舞伎の焦点に、莚蔵を据えたのである。第一回公演の演目は「熊谷陣屋」と「野崎村」。莚蔵は「熊谷」で敦盛、「野崎」で久松の役をもらった。敦盛は、舞台に登場しないから、普通の上演では配役がない。それを武智式解釈で、障子の向こうに実存しているとして配役した。莚蔵は言われるままに、障子にうつる影だけを演じた。一方の久松のほうは、大変な抜擢である。武智鉄二は、莚蔵に久松の役を指名することを、周囲に納得させるために非常な困難があったと前記文章で述べている。
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昭和二十四年十二月、武智歌舞伎によって、莚蔵は世に出る幸運をつかんだ。
武智歌舞伎というのは、武智鉄二の新演出による“歌舞伎ルネッサンス運動”である。歌舞伎は、古典となって形骸化した。もともとは、人間くさい現代劇であったはず。成立時点に戻ってリアリズムに演じてみようというものである。殴る真似をし、泣く真似をするのが演技ではない。本当に殴って、痛さの余り本当に泣いてこそ、観客の胸を打つ舞台になる、という主張で、若手たちを容赦なく鍛えた。そのスパルタぶりは、伝説化している。延二郎は「北條がなんじゃ」という短いセリフを、まる一日、反復した。鶴之助は息をつめて、弁慶の六法を踏めと命じられて失神した。莚蔵はというと、この激しい稽古を、天性の資質でサラリと受けながした。資質の一つは、クールさである。莚蔵に舞踊の振りをつけた井上八千代の回想を引用する。
熱演型の鶴之助さんは、それこそ頭からポッポと湯気が立ちそうなひどい汗で、浴衣はずくずくになりますし、見るからにお気の毒なようすでしたが、一方雷蔵さんの方は、もちろん一生懸命に違いないのですが、汗一つ出るでなし、けろりと涼しい顔でした( 侍 − 市川雷蔵その人と芸 )
資質の、もう一つは、おっとりした風格である。武智鉄二の回想も引用しよう。
特に雷蔵のノンビリぶりは超絶的だった。そのくせ「先生、それは昨日教えはったことと違いまっせ」と逆襲してきた。「今日のほうが正しいんだ」と、ぴしゃりと言うと「はっきりしてもらわんと困るなあ」と口答えした。その、とぼけた言いっぷりが、とても愛敬があって、緊張しすぎた稽古場の雰囲気をやわらげるのに、奇妙に役立った。( 侍 − 市川雷蔵その人と芸 )
稽古場では、お互いを愛称で呼び合った。延二郎は、延ぼん。鶴之助は、はじめちゃん。扇雀は、ぼんやん。そして莚蔵は、なんと「なまこのヨシ」であった。ヨシは本名の嘉男からきているが、なぜ「なまこ」なのか。頼りないようでいて歯ごたえがあるから、と説明されているが、もとより愛称は、論理的なもので命名されない。ふてぶてしい屈曲した青春を、なんとなく感じさせる愛称ではなかろうか。ともあれ、第一回公演の「野崎村」の久松に続いて、翌二十五年五月、第二回公演で「妹背山」の求女を演ずるに及んで、莚蔵の才華が、注目を浴びる。演劇雑誌「観照」(25年10月号)の合評を見よう。
大西重孝 莚蔵の求女はよかった。キリットした男ぶりで、ためた力が極まり極まりに、よい型をみせた。
沼雨 貴族的な雰囲気をよく出していた。
多田嘉七 単なる色気でなく、淡海公の肝を見せていたね。
激賞である。谷崎潤一郎も賞賛したという。莚蔵この時、十九歳だったが、生涯を通じて舞台で見せた演技のなかで、この求女が最高であった、というのが、歌舞伎通たちの一致した意見である。たちまち「幕間」という雑誌の人気投票で、莚蔵は二十五年度の第一位を占める。ちなみに二位は我当(十三世片岡仁左衛門)、三位は雁治郎(二世・昭和58年4月13日歿)、四位は鶴之助(現在の富十郎)、五位扇雀(現在の三世雁治郎)。莚蔵の、この大化けに目を細めた武智鉄二は、莚蔵に良い名跡を継がせたいと考えた。武智歌舞伎でこそ、当たり役が生まれた。この人気とまだまだ伸びる実力を持ちながら、莚蔵は、本公演では無視された。武智が目をつけた空き名跡は、中村雀右衛門であった。幸い、未亡人・中島ちかと面識がある。武智が直接、交渉したが、その返事は案に相違の厳しいものであった。「名門のお子なら、ぼんくらでもお譲りします。脇役さんの子では、いくら先生のお話でも・・・・」「駄目か。莚蔵は大ものなんだ。立派な役者になるに違いないんだよ」「万一ということがございましょう。もし、なってもらえなんだら、申し訳たちません。お断りします」
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脇役俳優の子であるという理由で、中村雀右衛門の名跡を拒まれた莚蔵に、養子話が持ちあがる。相手は市川寿海。すばらしい幸運である。しかし当人は、必ずしも幸運の女神と受けとめたわけではない。二十六年五月。文楽座で、若手抜擢の花形歌舞伎公演があった。若手というのは、扇雀と鶴之助のこと。このコンビで「鳥辺山心中」を出すことになり、莚蔵は、お花の役で助演した。鳥辺山は、市川寿海の当たり狂言だから、寿海は乞われて演技指導をした。このとき寿海が、莚蔵の実力を認め、養子縁組を申し出たのであった。
市川寿海。明治十九年生まれ。仕立て職人の子で、門閥がないためさんざん苦労した。明治三十八年、五世・寿美蔵の養子になることによって、名題役者に昇進、同四十年、六世・寿美蔵を継いだが、実力に応じた処遇を受けることができず、猿之助( 後の猿翁=昭和38年6月12日歿 )と新鋭劇団を作ったり、東宝劇団に参加したりで、絶えず傍流を歩いてきた。昭和二十二年、関西歌舞伎に移籍して同二十四年、三世寿海を襲名した。寿海は後に人間国宝、芸術院会員に選ばれるのであるが、この頃は移籍してきて四年目。関西歌舞伎では孤立した存在であった。実力があっても、脇役俳優の子として冷遇されている莚蔵に、昔の自分の姿を見たのであろう。その上、嗣子がいない。寿海は、莚蔵の将来性に賭けて、養子として引き取り、もし万一の時の世話を委ねたいと考えたのであった。寿海は、六十四歳に達していた。
この話を聞いた武智鉄二は、喜んで、莚蔵にお目出度うを言いに行った。菊・吉・幸・羽・・・明治以来の名優を相次いで失った今日、傍流であるといっても、寿海は梨園の長老である。その養子になることは、一流の役者の仲間入りをする未来を約束されることになる。数カ月前、中村雀右衛門の名跡を継がせることに失敗したことは、かえって幸いであった・・・。そう思った武智鉄二であったが、莚蔵の泣きべそ顔を見て、しゅんとなってしまう。莚蔵の本心としては、迷惑至極だったのである。実の親でないだけに、十九歳の今日まで、実の子以上に可愛がって育ててくれた両親を、いかに将来のためといいながら、弊履のように捨てるわけにはいかない。聞きたくもない話であった。
この時莚蔵を説得したのは、当の養父・九団次であった。脇役の悲哀は長年、身にしみている。武智歌舞伎でこそ、抜擢されたが、本公演では、いつまでたっても科白のある役がもらえないではないか。なまじ雑誌「幕間」の人気投票で、関西一位に選ばれただけに、前途が哀れである。出世のためだから、お前を手放しても淋しくない。淋しいのは、逆に、脇役役者としてしか生きようのない現在のお前を見ることだ。親の私が喜んでいるのだから、お前も喜んで、寿海さんの許へ、行ってもらいたいと思う・・・・。男親は、進んで覚悟をきめたけれど、女親の、はな、は未練であった。脇役でいいじゃないの。たとえ乞食しようとも、親子三人水入らずなら、そのほうが幸福じゃないの、と身も世もあらぬ嘆きであった。九団次は、妻を説得した。夕食の準備に手がつかず、ひたすら泣く、はな、に目刺しを焼いて皿に盛っただけの簡単な食膳をしつらえて、九団次は、親子三人膝をつきあわせ、昨日と、一昨日と、同じ言葉を、今日もまた根気よく繰り返した。「嘉男は、子のない夫婦を憐れんで、お地蔵さまの授けて下さった子供なのだ。いま、お地蔵さまにお返し申し上げよう。子を持つ喜びは、もう充分いただいた」こうして出た養子の結論に、莚蔵は条件を出した。ただ一つ、独りで下宿住まいをするという条件であった。寿海と一緒に住まないかわりに、九団次の家も出る。二親に仕えず・・・。これが莚蔵として、精一杯の、九団次に対する孝養の心であった。
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大阪歌舞伎座六月公演 番付 |
関西歌舞伎俳優協会第二回記念公演番付 |
養子縁組の媒酌人は、松竹取締役の白井信太郎が勤めた。六月の大阪歌舞伎座公演「白波五人男」で莚蔵は赤星十三郎に扮して、披露を行なった。莚蔵はここで、七代目市川雷蔵を襲名した。実情は、市川新蔵という名をもらいたいと、寿海から宗家に申請した。しかし、新蔵の名跡は、未知数の人間に継がせられぬと、市川猿翁が反対した。どこまでも歌舞伎の世界は、門閥がつきまとうのである。ともあれ、二十六年六月、七世・市川雷蔵が誕生した。宝暦の昔、二世・市川団十郎の門弟によって始まった雷蔵という名は、代々、荒事を得意とする若手役者に与えられる名跡であった。屋号は柏屋。俳号は柏車。これによって竹内嘉男は、市川寿海の戸籍に入って、大田吉哉と改名した。寿海の戸籍名・太田照三の長男ということになる。三階さんの九団次の息子が、この瞬間から「梨園の長老寿海の御曹子」と、新聞に書かれるようになったわけだ。だが、その実態は、およそ御曹子にふさわしいものではなかった。
寿海が楽屋を一つにして鏡台を並べるという、普通の親子関係のような甘さを見せず、やはり三階の大部屋に突き放されているところに、真の有り難い親心が見られる。( 富田泰彦「幕間」27年3月号 )
親心もなにも、雷蔵がなつかないという内実のうえに寿海が手をとって教えなければならないような大役が、一向に雷蔵に廻ってこないのであった。扇雀(現在の雁治郎)と鶴之助(現在の富十郎)の人気をあおることによって、関西歌舞伎を再建しようとしており、事実、その実績が積み重ねられつつあった。鶴之助は、生母の吾妻徳穂と共に欧米巡業をして、箔をつけた。扇雀も二十八年五月の東上で「曾根崎心中」のお初を好演して、芸術祭奨励賞と毎日演劇賞演技部門賞を受けた。
寿海の養子になって、莚蔵から雷蔵にかわっても、一向にかわりばえするほど目立った役にもつかず、目立った成績もあげず、まるでパチンコ屋の玉売りのようにもくもくとやるばかり。( 山口広一「幕間」28年5月号 )
という状態が続いて、雷蔵は、映画界入りしてしまうのである。
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昭和二十九年七月、雷蔵は大映と契約、映画界に新天地を求めた。雷蔵の映画入りの理由を、松竹の大谷竹次郎会長と喧嘩したことに求める説がある。(週刊読売34年1月4日号)経緯はこうである。扇鶴時代といわれて重視されていた鶴之助が不遇になった。雷蔵は「鶴之助さんですらあの扱いだから、ぼくなどいつ、どんな冷遇を受けるか、知れたものでない」と、大谷会長に面と向って言ったことが、憤激を買い「修行中の身で、待遇に文句をつけるとは、けしからん」と言われ「それなら、やめさせてもらいます」と、席を蹴って去った、というものである。この話は少し出来過ぎている。脇役の出という素性がはっきりしている以上、寿海の養子といえ、手のひら返して、大役はもらえない。しかし映画となれば、寿海の御曹子という現実が通用する。脇役出身という過去がないのである。映画界は、寿海の御曹子というネームバリュウでもって雷蔵を売り出そうと考え、誘いをかけた。それに乗った − と考えるのが妥当なようである。
雷蔵の映画入り第一回作品「花の白虎隊」のシナリオを書いた八尋不二は、著書「百人の侍」で − 雷蔵君に会って、映画入りの動機をきいたら「サンデー毎日に、その頃、わが家は楽し、ちゅうグラフがありましてん。それに親父さん(寿海)と一緒に写っているのを見て、酒井さん(箴・大映常務)が映画に来い、言うて来やはりましたんや」ということだった。 − と記している。
当時、映画界は予想以上に増加して行くテレビ受像機の台数に対して、警戒心を抱き始めていた。白黒でしか映らないテレビに勝つため、カラー映画化を推進すると共に、新しいスターを模索していた。大映の場合は、長谷川一夫を継ぐ主演男優がほしかった。その候補として、雷蔵が、勝新太郎とともに選ばれたのであった。「花の白虎隊」は、その二人のデビュー作品である。結論をいえば、ポスト長谷川一夫に、すくすく育ったのが雷蔵であり、長谷川一夫路線の二枚目に失敗して、汚れ役に活路を拓いたのが勝新太郎ということになる。とはいうものの、雷蔵は、長谷川一夫のような、純粋の二枚目でない。屈折した翳を持つ。初めて、その魅力を発揮したのが、十二作目(30年9月封切)の「新平家物語」の青年清盛である。そして四十七作目(33年8月封切)の「炎上」によって、ベニス国際映画祭の演技賞を獲得、トップスターの地位に登る。
◇
雷蔵の、映画スターへのステップは、足早だった。昭和二十九年七月に大映入社。同年暮(12月22日封切)の五作目「美男剣法」で、主役を演じる。
雷蔵時代が来たと、はっきり思わせたのは、三十三年四月封切の大映オールスター超大作「忠臣蔵」である。四十一作目だが、浅野内匠頭を演じる。本来ならば長谷川一夫の役だが、大石内蔵助に廻った。長谷川一夫そのためショックと、芸界雀は噂さする。だが三十四年六月封切の「次郎長富士」(59作目)で、長谷川一夫・清水次郎長、雷蔵・吉良の仁吉の配役を、世間は当然と受けとめた。雷蔵はこの時点で、永遠の二枚目・長谷川一夫の座を奪ったのだ。三十五年には、正月映画を独占する。「初春狸御殿」(65作目)が暮れの二十七日封切。「二人の武蔵」が一月三日封切となる。正月映画は、言うまでもなく、その映画会社の人気第一の俳優を起用するのが通例である。三十四年二月十五日号アサヒグラフは「雷蔵後援会の会員は約三千人。大半は年増の女性。男は僅かに四〜五人」と報じている。
雷蔵育ての親・九団次は、しかし、この人気を、ついに知ることなかった。三十年十月二十六日に幽明を異にする。養母はなもまた、その少し前に死んでいる。九団次の死は雷蔵の出世作となった「新平家物語」(9作目)の撮影中であった。死因は大動脈瘤であるが、雷蔵は、解剖を承認し、医師に乞うて解剖の場に立ち会っている。無残に切り刻まれる育ての父を正視している。寿海の養子となったその立場では、正式な喪主として、葬儀を司ることはできない。むごい解剖を、たじろがず見詰めることが、養い親への不孝を心に刻み、自身を責める報恩の心であると、雷蔵は信じたのである。寿海の籍に入って僅か四年目。このように早い別れとなるならば、養子話を保留にしておいて、九団次を送ってからでも遅くはなかろうに・・・・・。そうしたならば、二度目の養父・寿海と離れて住む不自然なことをしなくても良かったろうに・・・・。九団次にすまぬ。寿海に申し訳ない・・・・・。あれこれ悔やみこれを心に責め、果てしもない葛藤であった。こうした苦難のさなかに撮影された「新平家物語」なのだから、雷蔵が、この作品で、新生面を拓ことができたと、言えなくもない。
いよいよ本番。衣裳係が雷蔵に鎧を着せるのに手間どっていた。史実を調べ、本物の清盛の身体に合わせて作った大きな鎧は、華奢な彼(雷蔵)にはなじまななかった。(略)溝口(健二監督)はねちねちとしつこかった。「雷蔵君もそうです。ちゃんと着るように努力するのです。」この時突然、これまで無言だった雷蔵が大きな声でタンカを切った。「やかまし言うな−い。今日お日さんが西へ沈んだら、明日は東から出てくるわ−い。明日撮ったらええやろう」( 田山力哉「市川雷蔵かげろうの死」 )
寿海の養子となったあと、雷蔵は洛西・鳴滝の日当り悪い山ふところに、独り住んでいた。孤独を、雷蔵は己が運命と思っていた。それは中学校入試の際に、生みの親が別にいると気づいてからの習性であった。雷蔵は過去を振り返ってはいけない人間であった。人に問えない霧のベールに包まれたものが過去であった。しかし、生みの親・亀崎富久が、突然名乗りをあげてきたのである。机上に配達された一通の手紙。そこに、雷蔵が、育ての親九団次にただすことをためらった秘密が書きつらねてあった。
只今お知らせしたいことは、現在、生母は健在で、しかも幸福に暮している事を、ご安心頂ければ幸いです。
差出人は、聞いたことのない名前 − 吉田与一と認めてあった。生母の甥に当たるという。雷蔵は直ちに電話した。「会わせてほしい。今すぐ」生母との対面は、翌々日に実現した。手紙の主・伏見の富久宝酒造常務、吉田家の二階。雷蔵は、撮影が延びたために午後七時の約束を、約一時間遅れた。
生母の富久は、京都丸太町の老舗の長女として生まれた。東京の男爵家に、行儀見習い奉公をしている時に商社勤務の亀崎松太郎に見染められ結婚した。新夫が奈良聯隊に入営した時、富久の胎内に雷蔵が宿っていた。夫の留守の淋しさ。加えて婚家の厳しさに耐えかねて、富久は実家に帰り、雷蔵を出産した。富久は肺を病んで長い病床に臥し、亀崎家から離縁し、雷蔵は生後六カ月目、亀崎家の縁つづきに当たる九団次の望みにまかせてもらわれて行ったというのであった。富久は現在「再婚して、大阪。住吉に住んでいる」と述べた。
雷蔵は、初めて出生の秘密を知った。が、自分でも不思議なくらい平静に聞いた。そして言った。 「私は九団次を、本当の父と思っています。父は、名もない役者でした。歌舞伎の世界では、門閥がなければ虫けら同様です。しかし私は役者になりました。本当の父でないと知って、それなら、私は本当の子供になりたいと思って、父の跡を継いだのです。いまは、こうしか歩みようのなかった人生と思っています。悔いもないしまして寿海の養子となった以上は、寿海の名を恥かしめないことだけを考えています。お母さんに会えて、嬉しい。嬉しいという心に、嘘いつわりはないけれど、私には、過去のことにすぎません」
生母との出会いの日から、雷蔵は、呪縛から解き放たれたように、結婚を急ぐ。相手は遠田恭子。日本女子大学家政学部児童科三年生。あと一年待てば、幼稚園保母の資格が得られるというのに、中途退学させて、式を挙げる。三十七年三月二十七日である。このあたり、早逝を予期したのかと思えるほど、雷蔵は急いでいる。
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映画会社は、柳の下の泥鰌を狙う。当たった作品をシリーズ化して、ドル箱にしたいのだ。雷蔵も幾つかの主演シリーズを持つ。「眠狂四郎」シリーズが十二本。「忍びの者」と「若親分」が各八本。「陸軍中野学校」が五本。やはり数の上からいっても、眠狂四郎が雷蔵の代表作というべきであろう。転びバテレンの子という暗い出生を背負った剣士・眠狂四郎は、三度まで戸籍の姓を変えた雷蔵の過去を二重写しにして、虚無と孤独の影をスクリーンに滲ませた。
雷蔵は、しかし映画ばかりに出てばかりいたわけではない。三度、舞台に立った。三十五年八月と四十年十一月の大阪歌舞伎座。三十九年一月の東京日生劇場である。このうち歌舞伎座に出た二回は、いずれも養父であり、人間国宝(35年2月指定)である寿海を脇役にまわしての、立役者としてである。三十五年の時は「鈴が森」の白井権八で、寿海は幡隋院長兵衛。四十年の時は真山青果作「将軍江戸を去る」で、雷蔵が山岡鉄舟、寿海は将軍慶喜にまわった。日生劇場の舞台は「勧進帳」で、富樫を演じた。雷蔵の科白廻しが、明晰な寿海のそれに似ていることに観客は驚き「さすが親子の縁し」と、讃えた。もはや、一生を脇役役者で過ごした育ての親・九団次を思い出す者は、一人もいなかった。雷蔵は、舞台では、眠狂四郎と違って、脇役出身の過去を払拭して、堂々たる座頭の貫禄を示したのである。
雷蔵は、にもかかわらず、新劇を目指す。自らプロデュースし、経済負担をかぶって、新劇団を結成しようとする。これは、人間国宝・寿海の養子という過去のしがらみを振り捨てたかったのではないかと思える。異常な情熱をあらわにして、岸田演劇賞を受けた地元の劇作家・人見嘉久彦( 大阪読売新聞社文化部勤務、現在は大阪芸術大学教授 )に、脚本を依頼する。人見の話によれば、その脚本は次のようなものでなければならなかった。
「人間の手では、どうしょうもない、あるおおきなものの力 − これを運命と呼んでもいいし、神と名づけても良ろしい。その力に翻弄される男の悲劇。たとえばマクベスのようなものを、書いてくれませんか。」
人見は、要望に応じて、シェークスピアの作品「マクベス」とギリシャ悲劇「オディプス王」をつきまぜて脚本「海の火焔樹」を書きあげる。脚本のできたのが、四十三年二月。雷蔵は直ちに、京都と東京で、七月の八日間、劇場の予約をする。主演は雷蔵。相手役に藤村志保。そのほか助演は、俳優座の永田靖、文学座の金内喜久男など、すべて新人ばかり。自身で出向いて出演を依頼した。劇団名を「テアトロ鏑矢」と決めた。六月、京都の寺町のお寺を借りて、稽古に入った。その第一日目。人見嘉久彦は、今なお、その時の雷蔵の言葉を忘れられない。
あすは、ちょっと来られへんかも、しれんねん。腹具合がどうも変やから、病院で検査してもらおう思てるからな。でも、明後日は時間通り、間違いなく来るわ。頼むで。遅刻せんといてや。
検査にだけ行った病院から、しかし雷蔵は帰れなかった。即時入院と決まったのである。肝臓癌であった。肝臓癌は、もはや手遅れであった。もちろん新劇団旗上げ公演は流れた。三カ月間の入院で、九月に退院。雷蔵回復と公表されて、眠狂四郎シリーズの「人肌蜘蛛」と「悪女狩り」の二本に出演したものの、殺陣のシーンは替え玉を使わねばならなかった。癌と知らされたのは恭子夫人だけであった。
翌四十四年の二月に再入院。制癌剤の劇しい副作用で頭髪が細くなって脱け、手足は針金のようになったという。また病院のテレビで、自分の出演した映画の放映を見ながら、大粒の涙を浮かべていたとも伝えられる。五カ月後の祇園祭の日、七月十七日午前八時二十分、雷蔵は死んだ。享年三十七歳。
最後の作品は、二月二十二日封切の「博徒一代・血祭り不動」。百五十三本目の映画であった。しかし、どうにか吹き替えなしで撮影できた本当の遺作は、百五十本目の作品「ひとり狼」である。ハードな股旅もので、その暗さ故に、数年保留されていたのを、雷蔵が無理に希望した作品であった。興行成績は思わしくなかったけれど、原作者の村上元三は、納得のいく作品と讃えた。今となっては、雷蔵の生きざまを象徴する、孤独な悲しい作品である。
雷蔵は、ついに孤独であった。養父寿海に親しまなかった。しかし寿海が昭和四十六年四月五日に死んだとき、喪主は太田光紀と発表された。雷蔵の残した三児のうちの第二子、長男である。寿海に何ひとつ子らしいことをしなかった雷蔵に代わって、子供が、寿海への親孝行をしてくれたのであった。( 浜畑幸雄 )
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