脇役俳優の子が役者になったところで、世間が注目するわけはない。雷蔵の初舞台−昭和二十二年十一月、「中山七里」の茶店の娘お花は、せりふのない端役だがら、新聞雑誌の劇評の対象外。どんな初々しさだったのか、調べる手がかりはない。

 歌舞伎界は過渡期を迎えていた。23年3月18日 三世梅玉歿。 24年1月27日 七世幸四郎歿。 24年3月2日 七世宗十郎歿。 24年7月10日 六世菊五郎歿。相次ぐ名優の死は、新しいアイドルを求めた。これに応えて   22年1月 翫雀の二世鴈治郎襲名。 22年2月 菊之助の七世梅幸襲名。 24年7月 寿美蔵の寿海襲名。 があり、二世延若が二十四年五月に東上して「楼門五三桐」で“ 最後の上方役者 ”という絶賛を受けた。だが、戦災による劇場数の減少が公演の機会を狭めていた。役どころを、四十歳以上の中堅にくばると、もはや十代である雷蔵=莚蔵に出番はなかった。辛うじて莚蔵と同じ立場の、大部屋の若手十数人で勉強会を持つことが許されただけだったが、ここで莚蔵は、伯楽を得る。勉強会の名は「つくし会」。メンバーは、後に映画に転じて北上弥太郎となった嵐鯉昇(吉三郎の子)、ほかに中村太郎(成太郎の子)、中村紫香(霞仙の子)ら。二十四年五月二十二日に、千日前の料理屋の二階で、第一回脚本朗読会を開いた。莚蔵は「曽我対面」の十郎を朗読したが、これを武智鉄二が高く評価した。

     ・・・・・天来の美声というか、その整ったイントネーションに、すっかり魅せられ、私にとって忘れられぬ役者になってしまった・・・・・。

 雷蔵の追悼文集(「侍 − 雷蔵その人と芸」昭和45年、ノーベル書房編)で、武智鉄二は、その時の印象を上のように書いている。

 武智鉄二。昭和六十三年七月二十六日、七十五歳で逝ったこの人の名前は、ストリップ能、映画『黒い雪』わいせつ裁判などで、晩年は偏狂扱いされているが、戦後間もなくの頃は、演劇革新の輝ける旗手であった。簡単に前半生を述べる。

 大正元年、大阪市生まれ。京都大学経済学部卒。父は建築技師で「武智式基礎工事法」の特許を持ち、戦前の金で三千万円の財産があったが「おれ一代で作った金だから、長男の鉄二が全部使ってしまえ」と言った。訓誡通り武智鉄二は金を浪費し、速水御舟の絵を買いまくった。一本五百円の軸が、御舟ブームで万円の値がつく。減らすつもりの財産が逆にふえたので、昭和十九年五月から二十年八月まで、断絃会という、古典芸能鑑賞の集まりを作った。能・舞踊・音曲の凡そ一流人ばかりを、大金を払って招いて、無料で会員に見せたのである。谷崎潤一郎や吉井勇は、その熱心な会員だったという。二十年七月の山城少掾を聞く例会は、開会ただちに米軍機が来襲したが「聞きながら死ぬなら本望」と、会員の誰ひとり避難する人がなかったという話も残っている。この費用を武智ひとりで自腹を切った。断絃会でつながりをもった一流人たちへの顔と、資産と、そして、その頃まだ露出的でなかった演劇理論とで武智鉄二は、歌舞伎の実験劇場をプロデュースした。

 これが世にいう「武智歌舞伎」である。第一回公演は二十四年十二月七日から十日間、四つ橋の大阪文楽座で開かれた。出演したのは、関西歌舞伎の若手ばかりである。当時若手というと、最右翼が坂東鶴之助(市村竹之丞を経て五世中村富十郎)で、あと中村扇雀(現在の中村鴈治郎)、実川延二郎(現在の三世実川延若)という名門の御曹司を指していた。莚蔵らの「つくし会」の連中はここでも、その他大勢となるべき運命だった。だが、武智鉄二は、実験歌舞伎の焦点に、莚蔵を据えたのである。第一回公演の演目は「熊谷陣屋」と「野崎村」。莚蔵は「熊谷」で敦盛、「野崎」で久松の役をもらった。敦盛は、舞台に登場しないから、普通の上演では配役がない。それを武智式解釈で、障子の向こうに実存しているとして配役した。莚蔵は言われるままに、障子にうつる影だけを演じた。一方の久松のほうは、大変な抜擢である。武智鉄二は、莚蔵に久松の役を指名することを、周囲に納得させるために非常な困難があったと前記文章で述べている。

      

 

−37年の短い生涯を駆け抜けた雷蔵。章雄・嘉男・莚蔵・吉哉、どんな時も彼は真摯に生き