昭和二十九年七月、雷蔵は大映と契約、映画界に新天地を求めた。雷蔵の映画入りの理由を、松竹の大谷竹次郎会長と喧嘩したことに求める説がある。(週刊読売34年1月4日号)経緯はこうである。扇鶴時代といわれて重視されていた鶴之助が不遇になった。雷蔵は「鶴之助さんですらあの扱いだから、ぼくなどいつ、どんな冷遇を受けるか、知れたものでない」と、大谷会長に面と向って言ったことが、憤激を買い「修行中の身で、待遇に文句をつけるとは、けしからん」と言われ「それなら、やめさせてもらいます」と、席を蹴って去った、というものである。

 この話は少し出来過ぎている。脇役の出という素性がはっきりしている以上、寿海の養子といえ、手のひら返して、大役はもらえない。しかし映画となれば、寿海の御曹子という現実が通用する。脇役出身という過去がないのである。映画界は、寿海の御曹子というネームバリュウでもって雷蔵を売り出そうと考え、誘いをかけた。それに乗った − と考えるのが妥当なようである。

 雷蔵の映画入り第一回作品『花の白虎隊』のシナリオを書いた八尋不二は、著書「百人の侍」で − 雷蔵君に会って、映画入りの動機をきいたら「サンデー毎日に、その頃、わが家は楽し、ちゅうグラフがありましてん。それに親父さん(寿海)と一緒に写っているのを見て、酒井さん(箴・大映常務)が映画に来い、言うて来やはりましたんや」ということだった。 − と記している。

 当時、映画界は予想以上に増加して行くテレビ受像機の台数に対して、警戒心を抱き始めていた。白黒でしか映らないテレビに勝つため、カラー映画化を推進すると共に、新しいスターを模索していた。大映の場合は、長谷川一夫を継ぐ主演男優がほしかった。その候補として、雷蔵が、勝新太郎とともに選ばれたのであった。『花の白虎隊』は、その二人のデビュー作品である。結論をいえば、ポスト長谷川一夫に、すくすく育ったのが雷蔵であり、長谷川一夫路線の二枚目に失敗して、汚れ役に活路を拓いたのが勝新太郎ということになる。とはいうものの、雷蔵は、長谷川一夫のような、純粋の二枚目でない。屈折した翳を持つ。初めて、その魅力を発揮したのが、十二作目(30年9月封切)の『新・平家物語』の青年清盛である。そして四十七作目(33年8月封切)の『炎上』によって、ベニス国際映画祭の演技賞を獲得、トップスターの地位に登る。