好いて好かれた二人でありながら
悲惨な運命をたどらねばならなかった
かさねと与衛門の悲しい仲。

『色彩間苅豆 (いろもようちょっとかりまめ)』 -かさね与衛門-

◆解説

 通称『累(かさね)』とよばれ、1823年初演の、四世鶴屋南北による「法懸松成田利剣(けさかけまつなりたのりけん)」(日蓮上人と祐念(祐天)上人の御一代記を取り入れた夏芝居)という舞台の二番目序幕に上演された清元の舞踊。

 作詞は松井幸三、作曲は清元斎兵衛、現行の舞台は一時期、上演が途絶えていたものを1920年に歌舞伎座で六世梅幸、十五世羽左衛門が復活したもの。この時に、羽左衛門がそれまでの古い演出時の与右衛門の衣装(格子の浴衣やカスリの着物だったそうだ。)を黒羽二重の五つ紋所にした。花道を与右衛門と累が順に出る菊五郎型と、舞台は仮花道、または上手から与右衛門が出る梅幸型がある。

 前半では、累が清元のしっとりとした曲調に合わせて恋心を訴える「クドキ」が見せ場で、後半になると曲調ががらりと変わり、醜く変わってしまった累が与右衛門に襲いかかる場面が見どころである。

◆あらすじ

 一度は捨てた腰元の累と、木下川堤で再び巡りあった与右衛門は、累に一緒に死んでくれとかき口説かれる。いざ死のうとすると、川上から卒塔婆と髑髏が流れてくる。その髑髏は与右衛門がかって累の母菊と密通したときに殺した、累の父助の髑髏だった。驚いた与右衛門が髑髏を取り上げると、助の霊が乗り移ったことにより、累が苦しみ出し、その顔が醜く変貌してしまう。その上、片足も不自由になって与右衛門に襲い掛かかる。与右衛門は取りすがる累を殺してその場を立ち去ろうとするも、累の怨念で引きずり戻され、ついには累の遺骸に吸い寄せられてしまう。

◆縁の地

累塚 (東京目黒区祐天寺)

 累一族の怨霊事件を題材にとった鶴屋南北や滝沢馬琴らによるお芝居は大盛況をとった。そこで大正15年に六世尾上梅幸、十五世市村羽左衛門、五世清元延寿太夫等が施主となって、その怨霊を浄霊したといわれている祐天上人ゆかりの祐天寺に、慰霊碑としてかさね塚を建立した。以後、歌舞伎や映画関係者らは「累ケ淵」を上演するたびに無事を祈り参拝するようになったそうである。

 尚、本堂には累事件を描いた壁画もある。