忠臣蔵の六段目は勘平切腹の場ですが、
これはお軽が勘平の気をさっしてとめるというくだり。

『仮名手本忠臣蔵・六段目 (かなでほんちゅうしんぐら・ろくだんめ)』 -お軽勘平-

◆解説

 仮名手本忠臣蔵は、元禄赤穂事件に取材した人形浄瑠璃および丸本歌舞伎の代表的演目。作者は二代目竹田出雲・三好松洛・並木千柳の合作(中心となったのは並木千柳)で、太平記巻二十一「塩冶判官讒死の事」を世界としている。

 人形浄瑠璃としての初演は寛延元(1748)年8月14日から11月中旬まで、大坂道頓堀竹本座であり、同年12月1日より大阪道頓堀中の芝居で歌舞伎化。江戸での初演は寛延2(1749)年2月6日より森田座で、京都では同年3月15日より早雲長太夫座であり、以降、途切れることなく現代に至るまで上演されつづけている。

◆あらすじ

 塩冶の家臣早野勘平は松の間の刃傷の時、腰元のお軽と逢い引きをしていた為に急の場に駆けつけることが出来ず、その申し訳なさに逐電し、お軽の親元である山崎村で狩人に身をやつしていた。

 雨の夜、勘平は山崎街道でかつての同僚千崎弥五郎と出会い、敵討ちの計画があることを知らされ、御用金を調達することを約束し別れる。一方お軽の父与市兵衛は聟を元の武士に戻してやりたいと、金を拵える為に勘平には内緒でお軽を廓に身請けさせることにし、その帰り道、塩冶の浪人で山賊に落ちぶれた斧定九郎に五十両を奪われた上に、命まで奪われてしまった。しかし定九郎もまた、猪を追って駆けつけた勘平が撃った玉に当たり死んでしまう。

 暗闇の中で勘平は猪ではなく人の死骸であることに驚き、薬を探すが偶然財布に手が触れてしまい、悪いとは知りながらも敵討ちに加わりたさのあまりに、つい御用金にと財布を手にして弥五郎を追いかけてしまう。(以上五段目)

 お軽と母のお萱が与市兵衛の帰りが遅いのを心配している所へ、一文字屋のお才がお軽を連れに来る。そこへ勘平が戻り仔細を聞き、昨夜山崎街道で誤って殺したのは実は舅であったかと思いこんでしまった。

 お軽が連れて行かれた後、与市兵衛の死骸が運び込まれ、お萱も勘平が与市兵衛を殺して金を奪ったと思い込み、勘平を責め立てる。訪ねてきた千崎、原の両人にも不忠不義と罵られた為、非を悔いて腹を切ってしまった。しかし全ては誤解だった事が判り、勘平は仇討ちの連判に加われたものの、そのまま死んでしまうのだった。
  

◆縁の地

 お軽勘平の碑 (横浜市戸塚区戸塚町・「西横浜国際総合病院前」バス停のそば)

 歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」四段目、塩谷(えんや)判官の家臣早野勘平と腰元お軽が、お軽の在所への道行の途中、「鎌倉を出てやうやうと、ここは戸塚の山中、石高(いしだか)道で足は痛みはせぬかや」と勘平が優しくお軽に問うところである。
 お軽が「なんの、それよりはまだ行先が思われて」と応えると、勘平「さうであろう。しかし昼は人目を憚る故」、「幸ひここの松陰で」、「暫しがうちの足休め」、「ほんにそれがよいわいの」・・・と、名場面となったところである。 
 

 「お軽勘平戸塚山中道行の場」と刻まれた碑が松並木の続く先の左手に建っている。「仮名手本忠臣蔵」の有名な場面で、戸塚山中のお軽勘平道行きの場面がここら辺という由縁からであろう。