この一球を雷蔵さんは見守っている

雷蔵に再出発を約す

 「よしっ!やるぞ。まず新宮に行って、高校時代のピッチングを思い出すことだ!」

 前岡は勇気百倍し、その足で、彼を育てた新宮高校の恩師、古角俊郎氏のもとを訪れた。前岡は、古角氏のアドバイスと、高校時代の捕手浜田氏の厚情で、すっかり忘れていたピッチングのカンを取戻すことができた。

 一月二十九日、前岡は雷蔵さんの前に、元気な姿を現わした。「今度こそ、きっとカムバックしてみせます。ほんとうに初めから出なおしの気持なのです」前岡は雷蔵さんにいった。思えば彼も不幸だった。スカウト合戦にあまり鳴物入りで騒がれて入団したので、古参選手はハレ物にさわるように彼を扱った。しかしカイザー田中監督の愛情は彼の緊張をときほぐした。エースナンバー背番号18号の重責をといて、47番のユニホームを与え、彼の新しい門出を期待したのだ。

 だが、その期待をも前岡は裏切った。今シーズンも彼は不調を脱しきれなかった。彼は時にふれ、雷蔵さんに手紙を書いた。兄のような雷蔵さんの激励を、心の隅で期待していたのかもしれない。しかし雷蔵さんは、頑固なくらいに返事を書かなかった。

 そして問題の日 - 九月二十三日が、ついにやってきた。

 カイザー田中監督は珍しく前岡に先発を命じた。彼は慎重にカーブを投げ、時折り新宮時代を思い出させるような豪速球を大洋打者の膝元にきめた。九回最後の打者近藤(和)のセンターフライが、並木のグローブに吸いこまれた。彼はナインの人たち、報道陣の連中にもみくちゃにされながら、夢の中のような気持でダッグアウトに引き上げた。

 その夜、前岡は、宿舎の清水旅館に帰るとすぐ、雷蔵さんに電報を打った。“カッタウレシイ”とたった七字だけ。彼はその電文を頼信紙に書きながら、大きな涙を、ポタポタとその上に落した。十一時、雷蔵さんの祝いの長距離電話が入れちがいに旅館にかかってきた。彼は京都で『かげろう絵図』撮影の合い間に、刻々と知らされる戦況に、胸を躍らせていたが、前岡の勝利を知り、帰宅すると、さっそく長距離電話を申し込んだものだった。

 東海道線を不通とした伊勢湾台風が二人の再会をはばんだ。三日後の二十九日、晴れて一勝をあげた前岡は、雷蔵さんと八ヶ月ぶりに対面、心から楽しい食事をともにすることができたのだった。