雷蔵は汚れない

没後30年に思う

夭折の映画スター。もうそれだけで、人の心を奪うには十分だろう。ジェームス・ディーン、マリリン・モンロー、そして市川雷蔵。その死から、長い年月を経たにもかかわらず、彼らの映像はことあるごとに、人びとの前に公開され、次々と新しいファンを生み出している。私もそんな遅れてきた雷蔵ファンのひとりだ。三十七歳で逝った彼のイメージは「青年」で「独身(ひとりみ)」。実際の雷蔵、本名太田吉哉は三人の子供の父親で、家庭生活を大事にする人だったらしい。そして雷蔵は汚れない。

『大菩薩峠』の主人公、机竜之助。凄絶なまでの剣の腕をもちながら、辻斬りがやめられない、人殺しの性をもつ男だ。そんな自分を呪ってか、あるいは罪の意識にさいなまれてか、いつも悪夢にうなされ、狂乱する竜之助。アンチヒーローを、雷蔵は妖しく、美しく、そして濃厚に演じる。この狂乱の姿でさえ美しいのは、雷蔵が歌舞伎出身だからだろうか。歌舞伎の演出は、凄惨なシーンも様式美でみせるものが多い気がする。

この濃縮された虚無の人、机竜之助に比べると、眠狂四郎は、かなりまともにみえる。女を手ごめにし、人を斬りながらも、おのれの筋は通さずにいられない人間だから。この雷蔵の凄惨の美しさを見ていると、思いっきり肩に力が入っていることに気づく。そんな時、スクリーンの中で、ふとこぼれる雷蔵の笑顔にはたまらないものがある。


『眠狂四郎勝負』では、意外と笑っているし、『忍びの者』の石川五右衛門にもイノセントな笑顔がある。それから『ぼんち』。いつも風呂上がりみたいな若旦那で、からみつくような船場言葉をしゃべる。雷蔵は大阪育ちだから、この言葉は、地に近いのだろうと思うと、なんだかどきどきする。私は上品な関西弁を使う男に弱いのだ。

近代的苦悩も体現

『ぼんち』と同じく、市川崑監督の『炎上』と『破戒』での雷蔵は、時代劇とは全く異なる演技をみせる。『忍びの者』も時代劇の芝居じゃなかった。古典的な時代劇スターでありながら、近代的自我の苦悩(文学用語ね)を体現できるなんて、ほかにだれがいただろうか。十五年で百五十八本もの映画に出演し、舞台にも意欲をみせていた市川雷蔵。彼はスクリーンの中に永遠の若さを保っているが、もし今、生きていれば六十八歳。小柄で上品な老人となって、池波正太郎の『剣客商売』の秋山小兵衛などやっているのを見たかったなあ、などとせんないことを思ってみたりする、私だった。(1999年10月1日東京新聞夕刊より)