わが最愛の異性

私の半生を通じて、最も真剣に、最も長期にわたって愛し抜いた異性があります。もっとも、彼女は、残念ながら人間の異性ではなくて、美しい縞の毛並みをしたペルシャ猫でしたが・・・。

その猫は、私が小学二年の時に、偶然道で拾ってきたものですが、初めてこの可愛くて美しい、ヒスイ色の瞳を持った仔猫を見た瞬間、たちまち彼女の魅力に憑かれていまいました。しやそればかりではありません。彼女もまた私の姿を認めると親愛の情を全身に見せて、私の傍へすり寄って来たのです。まさに双方ともが一目惚れだったわけです。

間もなくミイ(私は彼女をそう呼んだ)は、近所の家の飼猫だったことが解りましたが、私はこの時とばかりに、強引に駄々をコネ通して、ついに名実ともにわが家の、というより私のペットとしてしまったのです。

ミイは猫としては長命の方で、それから十五年も生きていて、さすがにその晩年は毛並も艶を失い、歯もすっかり抜けてしまって、見るかげもなくなりましたが、わtれわれの交情は年とともに、ますます深くなって行くばかりでした。

ミイも青春時代には、何回となく彼女そっくりの仔猫をたくさん生みました。事実、それらの仔猫は私が初めてミイと逢った時のような、誰が見ても可愛い姿をしていましたが、不思議にも私はそれらに対して、少しも愛情を感じないのです。

そして、仔猫が生れるたびに、惜しげもなく、一匹も家に残さず他家へやってしまって、相変わらずミイだけを愛しつづけたのでした。

戦争当時のことでしたが、ある時私の住んでいるあたりが猛烈な空襲を受け、付近の小学校へ避難することになりました。ところが何にも増して大切なミイの姿が見当らないのです。私はまるで旅順閉塞隊の広瀬中佐のように、さし迫る危険も忘れて彼女の姿を求めましたが、どうしても見当りません。

とうとう家族に引っ張られて、心ならずも彼女を残したまま避難しましたが、激しい空襲の最中でも、私の心はミイのことで一杯でした。ところが、間もなく学校のわれわれに伝わってきた噂によれば、私たちの家のあたりだけは、奇蹟的に助かったというのです。

それを聞いた次の瞬間、私の足は夢中で我が家の方へ駆けていました。いかにも周囲一面焼野原の中に、私たちの住んでいた一郭だけが、まるでウソのように焼け残っていました。そして、私が勢込んで表戸を開けて入ろうとした途端、その私の眼の前にミイは、まるで絵に描いた猫のように、ちんまりと香箱を作っていたのです。そして、私の顔を見上げていかにも懐しげに「ニャーン」と一声啼いたのでした。

この時のいとおしさは、いまだに忘れることができません。

私が現在の寿海の家へ養子に行くことになった時、ミイはすでに晩年を迎えて老いさらばえた姿になっていましたが、さすがに彼女を養子先へまで連れて行くことも憚かられ、ついに家へおいて来ました。ところが家の方でも、世話をするものがないままに、間もなく彼女を他所へやってしまいました。

私は心ならず別れたこの年来の友の顔を見るため、その後何回となくわざわざ東山のほとりにあった新しい飼主の家へ、たずねて行ったものです。

いまでも時々ふと空想することがあります。もし、ミイが猫でなく狐だったら、きっと芝居の「葛の葉」か「狐と笛吹き」のように、絶世の美女になって、私の家へやってくるだろうと。