今でも見る雷蔵さんの夢

昭和四十四年の七月二十三日、この日が雷蔵さんの告別式でした。そして、この日が淳の誕生日なのです。カミナリがゴォー、ゴォー鳴って、雨が降りつづいた。二十日が予定日でしたけど、主人が知らせをきいて、途中で生んでもいい、連れて行って、と、私は叫んだそうです。

そして、告別式に、淳の誕生。淳のお誕生日を迎えるたびに、雷蔵さんのことが思い出されるのです。

大変なニヒリストで、とっつき悪く、毒舌で、皮肉を随分いわれた。それが今は、楽しい思い出。私がデビューしたのが『陽気な殿様』(森一生監督)で、以後雷蔵さんとは『続・忍びの者』『若親分』などにごいっしょさせていただきました。雷蔵さんの奥さんと私とは、日本女子大の付属小学校から高校までいっしょで、大親友なのです。私が大映に入ったのも、そんな縁。

京都の自宅へ遊びに行ったとき、雷蔵さんの前で地図を拡げていた私に向かって「京都なんて北から南まで大したことないよ、地図を頼りにすることあらへん」。とりつくしまのない言い方でしたね。それにご自分では車を運転しないのに、一度通った道は絶対忘れない。物覚えがよろしかったですね、今思えば、そのときどきを大切にしている感じ。努力家でしたね、万事にわたって。細かいことにすごく気がつく人で、表面的にはヌーボーとしていました。

(雷蔵の死は)信じられないというか、悔やまれます。もう少し、雷蔵さんの人間性に接しておればよかったと、今に思います。こわくて逃げてばかりいましたもの。(笑)

亡くなられて一、二年。雷蔵さんの夢をよくみました。賊に襲われて、縁の下に雷蔵さんがかくまってくれる夢。雷蔵さんは夢の中まで、私を救けてくれる。なんの恩返しもできないのが、心のこりです。(「ミノルフォンレコード・日本映画名優シリーズ市川雷蔵魅力集大成」より)