キリリとさわやか

 どこかに録音があると思うが、ここには収録されないであろう市川雷蔵の声がある。それは、昭和三十九年一月、東京日生劇場で演じた「勧進帳」の富樫左衛門の台詞である。弁慶は市村竹之丞(現:中村富十郎)であった。舞台を去って十年、その間、父市川寿海と大阪新歌舞伎座に出演したことがあるが、それからにしても五年が経っている。正直なところ、舞台俳優としてのこの空白に私は不安を持って、初日の幕があがるのを待った。

 「勧進帳」は、富樫の名乗りから始まる。第一声をきいた瞬間、私は、これなら安心と感じた。完全に歌舞伎の声である。ドラマの進行につれて、やがて安心の程度ではなくなった。若手の中では、口跡の明晰な歯切れの良さでトップに立つ竹之丞の弁慶を相手に、雷蔵の富樫は一歩も譲らず、さわやかな高音にメリハリがきいて、観客をそのペースに乗せきっている。若手同士の闘志がぶつかり合って、舞台は気持ちよく盛上った。私は快い陶酔にひたりながら、雷蔵の台詞まわしが、音声の質、その張りの魅力、抑揚の工夫などの点で、父寿海をそのままに受けついでいることを、はっきりと認識した。

 晩年の寿海は、口跡の良さで、東西の歌舞伎を通じ、第一人者と言われた。いつまでも若々しい音声で、清潔で格調のある表現の中に、役の感情と心理が生動した。しかし、寿海がこの円熟に到達するまでには、二十年以上の時間と努力がかかっている。昭和十年前後の寿海(当時、寿美蔵)は、一本調子にうたい上げる欠点が耳についた。それが円熟と充実をみせて来たのは、たまたま、市川九団次の子、莚蔵を養子に迎え、雷蔵を名のらせた、昭和二十六年四月の前後に当っている。

 雷蔵が歌舞伎にいたのはその後三年で、昭和二十九年の夏、旧大映京都作品『花の白虎隊』に出演して、映画スターの道を歩み出す。それから十年の空白があったのに、雷蔵の富樫は、その口跡に快適な歌舞伎のリズム感があふれ、三十代の若さで、寿海の円熟に匹敵するできばえだった。まことに稀なことである。

 雷蔵は、音声表現に持って生れたすぐれた素質があり、加えて、年少から歌舞伎の基礎訓練を受け、養父寿海の手許で修行したことが、映画スター、ことに演技派スターとしての成功に、大きな助けとなっている。雷蔵の端正で清潔、冷静なうちに感情の柔軟をそなえた印象は、彼の音声の魅力と切りはなすことができない。映画とは関係のない歌舞伎のことを持ち出したのは、ここに再現されるのが雷蔵の「音像」だからである。

 よく言われることだが、雷蔵くらいメークアップの栄える俳優も少なかった。ことに時代劇がそうである。柴田錬三郎氏の眠狂四郎シリーズをその後演じる人がいないのは、端正、冷徹、そのうちに秘めた情熱、という複雑なものを体現できる人が、雷蔵の他に見出し得ないためであろう。

 彼の日常の風貌は、役所か企業の、若いつとめ人と言ってもおかしくなかった。現代劇に出演するようになってからはともかく、時代劇だけに出演のときは、素顔で街を歩いても、俳優と気づかれることは、ほとんどなかっただろう。そういう風貌の保持は、やはり、心の反映であると思う。彼は、技芸の向上については、非常な努力家であり、貪欲とも言えるほど、映画、演劇を見、本を読んだ。俳優は、よく一生が勉強とか、死ぬまで修行とか口にするが、実行する人は少ないようだ。雷蔵は、その少数の一人であった。私は、自分の目と耳で、それを知っている。