キリリとさわやか

 私が旧大映の京都スタジオの企画部にいたころ、昼休みになると、そとの廊下から下駄の音が近づいて来る。若い連中は、目顔で「雷ちゃんが来たぞ」と知らせ合っている。やがて、ドアがあいて、メークアップのままだったり、素顔に眼鏡をかけている時もあるが、くつろいだ様子で、口の中で「お早よう」と言いながら、雷蔵が入って来る。室のまん中にある粗末なソファに腰をおろすと、一番手近にいる企画部員に、「今やっているXXの映画、見た?」とか「このあいだ出た、XXの小説、読んだ?」とか「昨夜のテレビのXX、見た?」とか話しかける。相手が、見ていても、いなくても、読んでいても、いなくても、彼はそれをきっかけにして、観想を話し始める。手放しでほめるところもあれば、きびしく批判する箇所もある。相手が、その感想に異論を持ち出すと、さらに声をはげまして、自分の感想を主張する。このように述べると、何だかカンカンガクガクの論争みたいだが、彼も大阪生れの大阪育ち(実際は生まれは京都)だから、会話は大体関西なまりの言葉のやりとりで、東京風の荒っぽさはなく、柔軟性のある閑談という趣であった。

    

 雷蔵は、若い企画部員の話も聞き、彼らに仕事のことを頼み、いつも自分がマンネリズムにおちいるのを避け、新しいものの吸収につとめていた。そんな風であったから、『炎上』(原作、三島由紀夫 監督、市川崑)の主役のような役柄にも成功し得た。いわゆる教養とか型にはまった知識からではなく、俳優が職業上の栄養として摂取したものが、血肉となって、現代の苦しみに生きた青年僧を、スクリーンに創造したのである。彼のこの演技には、大変自然に不幸な家庭に育ったという暗い影がにじんでいて、私はそれを評価していた。おそらく、それは演技以前の、彼の生い立ちの中から出て来たのではないか、と想像する、というより、邪推した。

 というのは、彼は、市川九団次のところでも養子であった。私は彼が生家を離れた事情を知らない。生家を離れたのが、もし幼時ならば、どんな事情でもあれ、それが彼の心のどこかに、暗いかげりをつくっていて、『炎上』の役で、たまたま無意識に、にじみ出てニュアンスを添えたのではあるまいか。一日、二人きりになった時、私生活の過去に立ち入る無礼をあらかじめことわった上で、私は、このことを口に出した。彼は黙ってきいていたが、「そんなこと、全然ありませんよ。僕は生まれた家でも、普通の子供で育てられたようです」と答え、私の問いの意味が分からないという口ぶりだった。サラリとして格別不愉快そうな様子もなく、すぐ別の話題へ移った。彼のすがすがしい気質が気持ちよかった。私は、自分の邪推を悔いて、九団次家へ入る事情をきくのを、何となく止めてしまった。そのため、彼が俳優の道を歩むきっかけをつかむ機会を失ってしまったのを、今も悔やんでいる。

 彼が病臥する直前の『ひとり狼』(原作、村上元三)は、私の企画であり、脚本も手伝った。長い間ペンディングだったのを彼が取り上げたことで実現しただけに、大変気を入れて、娯楽作品であっていいが、主人公の股旅者の性格だけは、きびしく描きつめてほしい、と言い、珍しくシナリオに何度もダメを出した。数回の手直しを経たシナリオが、彼の手もとへ届いた日、夜おそく、彼から「大変結構です。ご苦労さんでした」という電話があった。この時ほど機嫌のよい、明るい雷蔵の声は初めてだった。池広一夫監督の秀作だったにもかかわらず、この映画は不入りだった。私は未だその理由が分からずにいる。そのあと「鏑矢」という劇団をつくり、新しい舞台の創造にも出発しようとしたが、天は彼にその時間を与えなかった。

 彼は十六年の間に百五十三本(実際には百五十八本)の映画に出演した。そして文字通りスターとして完全に充実し、これから油ののった仕事の出来るところだった。花のように惜しまれて散ったとも言えるが、作品を振りかえると、花のうちに、既にしっかりとした実を結んでいるものが少なくない。悔いることはない、と思いたいが、やはり、その夭折は、愛惜のかぎりである。雷蔵という俳優がどんな人柄だったか、ときかれたら、一言、キリリとしてさわやかな青年だった、と答える。