雷蔵丈のこと

ここに醇乎たる歌舞伎俳優に戻って舞台に立つ雷蔵君を、特に雷蔵丈と呼んで、敬意を表したい。私は残念ながら、大阪における武智歌舞伎時代に、世評の高かった君の「妹背の道行」の求女を見ていない。しかし、その後、映画で見る君の芸風、容姿から考えて、求女がいかに適り役であったか、想像するに難くない。目の美しい、清らかな顔に淋しさのの漂、そういう貴公子を演じたら、容姿に於て、君の右に出る者はあるまい。

君の演技に、今まで映画でしか接することのなかった私であるが、「炎上」の君には全く感心した。市川崑監督としても、すばらしい仕事であったが、君の主役も、リアルな意味で、他の人のこの役は考えられぬところまで行っていた。ああいう孤独感は、なかなか出せないものだが、君はあの役に、君の人生から汲み上げたあらゆるものを注ぎ込んだのであろう。私もあの原作「金閣寺」の主人公に、やはり自分の人生から汲み上げたあらゆるものを注ぎ込んだ。そういうとき、作家の仕事も、俳優の仕事も、境地において、何ら変るところがない。

今度、雷蔵丈は、「勧進帳」と石原慎太郎氏の新作「一の谷物語-琴魂」の二つに出演するときく。石原氏の新作は私も読んだが、ふつうの商業演劇には見られぬ清新な作で、扱っている時代は古くても、現世と来世を一トまたぎにするコクトオの戯曲のような趣きがある。これも手ごはい芝居だと思うが「勧進帳」の富樫はさらに大へんだろう。中年以上の観客の目に、まだありありと十五世羽左衛門の英姿が残っているからである。容姿に於ては間然するところのない君の富樫が、演技において、セリフ廻しにおいて、真の力量を示しえたならば、君は俳優として明らかに、新しい段階を画するであろう。

芝居の仕事、映画の仕事、特に演技者の精神世界には、独自の興奮と孤独、はげしい喜びと淋しさがつきまとう。ふつうの人の精神生活が、たとえばビルの一階と五階の間で営まれているならば、俳優のそれは、地下五階と地上十階の間で営まれている。それだけに振幅がはげしいのだが、ふつうの人でも、青春時代には、かなりはげしい振幅のある精神生活を味わうのが常である。俳優はそれを一生つづけなければならない。そこに俳優の光栄と悲惨がひそむが、同時に、いつまでも若くいられるという一得がある。

雷蔵丈が、この若さを単なる武器とせずに、それを一つの地獄の運命と考え、そこに身を賭ける覚悟を固めるときに、ほんとうに偉大な俳優への道がひらけるのだと思う。(64年1月日生劇場杮落し公演プログラムより)