一昨年であったか、作家星川清司の直木賞受賞パーティで藤村志保に会ったことがある。話は当然、市川雷蔵との共演作におよび、「斬る」で夫に介錯させて死んでいく妻の話になった。藤村は夫に討たれる妻の仕合せを、夫を見上げる至福の微笑みで表現していた。

「この役をいただく時、三隅先生は“ちょっと笑ってごらん”っておっしゃったんです。それで“うん、その歯並びなら大丈夫だ”って」。

この時、細部にこだわって画面に張りつめた美を生んでいく三隅研次の映画作りの秘密に触れたような感動を覚えたものだ。複雑な出生の秘密を持つ小諸藩士高倉信吾(雷蔵)の凛とした人生を成り立たせるには、夫の手にかかることを至福と思う母の美しい笑みが絶対に必要だったからだ。そしてまたその笑みは白い歯並びで完全無欠のものとなる必要があった。

三隅研次は大映京都にあって、時に一年に五本という過酷な映画製作をこなしながら、プログラム・ピクチャーの中に埋もれることなく、突出した独特の美学を展開させた監督だった。そして、それは雷蔵とのコンビできわだっていた。さらにいえばそのコンビに星川清司が脚本家として加わった時、永遠に失われぬ作品が何本も生まれたのである。

「眠狂四郎」シリーズの生みの親であり、「陸軍中野学校」の最初のシナリオライターでもある星川は、1964年、三隅・雷蔵コンビの「無宿者」「眠狂四郎勝負」の脚本を書き、翌65年には、「眠狂四郎炎情剣」「剣鬼」の脚本をものして、自身、「出会いのすばらしさ」を心ゆくまで味わったという。

「雷蔵・三隅の出会いがが自分の人生を決めた」と思うほどその出会いは深いものであったようだが、三隅にとってもまた雷蔵にとっても、互いの出会いは“運命”のようなものであったらしい。

三隅はそのことを生前、あるインタビューで「相性がよかったんですかね。ぼくの持ってるものと、雷蔵の持ってるものがね。評論家でも、三隅君の写真が怖いほど光ってくるのは、雷蔵の出てる時や言われます」と語っていたことがある。

三隅はまた雷蔵のことを「ほんまにきれいやった」と語り、「底の方の悲しみが出せる人やった」とも語っていた。そして「深い悲しみを自分で踏んまえているから明るいものもできた」のだと評価していた。たとえば「婦系図」のせつないお蔦の女心にも、女の顔よりも雷蔵の顔で泣けてきてしまうのだと三隅は言っていた。

雷蔵もまた三隅に対して、自分にもっと近いものを感じていたのではないだろうか。三隅・雷蔵のコンビの作品には、監督と俳優との出会いの確かさ以上の、人間が出会い、おのれを委ねることの仕合わせが画面からにじみ出るように感じられる。

たとえば、三隅はまるで恋心を秘めたようなキャメラ・アイで雷蔵をとらえてみせる。「斬る」でうすい青色の絹の衣裳に包まれた雷蔵の立ち姿を、絹のやわらかい動きとともにとらえるかと思えば、「無宿者」では、雷蔵の細い、たおやかな背中にキャメラをずっと這わせる。「剣」のクローズアップがとらえる雷蔵のすずやかな瞳に美しいうなじ。「眠狂四郎勝負」では老勘定奉行に向けるやさしいまなざしをとらえ、「剣鬼」では、クローズアップのキャメラが素顔の雷蔵の黒目がちの瞳が苦渋に染められるさまをじっと見つめている。

雷蔵はまたこの目をいかして、いってみれば、出演作の数だけの人間を演じたのである。そこのところが、一つのパターン、一つのスタイルで演じ続けた勝新太郎とは大いに異なる点だ。雷蔵はいつでも、ひとりの人間が出会うドラマ、喜びと悲しみ、孤独を演じ続けたのだ。

 

そして、その演技をもって三隅作品の荒唐無稽のストーリィーさえ、画面に定着させてみせたのである。出生も不明のま   ま、犬の子と蔑まされた「剣鬼」の主人公は、長じて居合抜きの名人となり人を斬り続けるが、彼の足は犬のように速   く、早駆けの馬さえ追い抜いた。筋だけ語れば話にもならぬそんなストーリィーも雷蔵が演ずればリアルなものとなり、そこから人間の宿命の悲しみ、孤独の叫びが立ち上がってくる。

今回の公開に際し、ニュープリントされた三隅作品は、記憶の三隅作品とは違い、思いがけず明るく鮮やかで、それが主人公の孤独に一種透明な美しさを与えていた。日本映画ではない、フランス映画のような味わいさえ感じられた。(キネマ旬報91年4月下旬号「特集・三隅研次白刃の美学」より)