生前の市川雷蔵は、たぐいまれなくらい、もっとも役者らしく化けられる人だった。日頃はメガネをかけ、ボクはいつでも銀行員になれるねぇ、と三枚目を自負するほどのおだやかな人で、とても気さくな印象でした。(大映大葉氏)

 その彼のおびただしい作品の公開は、昭和29年〜44年までのほぼ16年間である。時代劇をもっとも得意とし、その150を越す作品は外国のどんな大スターであろうとも、天寿をまっとうするまで不可能なことにちがいない。

 市川雷蔵は、『炎上』、『若き日の信長』、『陸軍中野学校』などのデビュー中期〜後期にかけ、その彼の持つ俳優としての資質の完成をしてしまったと言っても過言ではないようだ。『眠狂四郎』にしても、とにかくピタリとはまった役柄は、彼以外の俳優には考えられない重量感がこもっている。

 また、彼は、その役者としての信条を「ボクは常に文学青年」とうたい、酒、タバコをやらず、芸能スズメも一部には、なんともおもしろ味のない男と言われたこともあった。だが、それもこれも名優だったからこその近づきにくさだった声であろうか?

 雷蔵の人と映画の復活は、なによりも増して「・・・偲ぶ会」の代表である石川篤代さんらの熱意と行動力にほかならない。「雷さまの人柄も、そして出演した作品も私達ファンにはいついつまでも生き続けていますよ」と。

 

昭和43年6月、この『関の弥太ッぺ』の撮影中に病気でたおれる。154作目ならず。