雷蔵・華麗なる足跡


雷鳴が轟き、篠つくような雨の降る境内に、線香の煙がたなびき、読経の声が静かに流れる。その中を行きかう傘の波。足々々・・・。昭和44年7月23日の池上本門寺。眠狂四郎=市川雷蔵=太田吉哉の葬儀にふさわしい日であった。その生い立ちさえ、狂四郎のそれに通ずるようにさえ思える−。

昭和6年8月29日、夫の許を去り、京都市丸太町の実家に戻った母富久は、そこで男の子を生んだ。章雄と命名。その章雄も、生後6カ月にして竹内嘉三(後の市川九団次)に引き取られ、名も嘉雄と改められ、竹内家の養子となった。

大阪府立天王寺中学を二年で中退した嘉雄は、昭和22年11月、大阪歌舞伎座『中山七里』で初舞台を踏む。芸名は市川莚蔵。昭和24年12月大阪文楽座の武智歌舞伎旗上げ公演に参加。こうして舞台への道を歩み始めた嘉雄は、さらに昭和26年6月、市川寿海と養子縁組をすることによって、姓名も太田吉哉と改められ、八代目市川雷蔵を襲名(一般には七代目とされているが、現在太田家に残された寿海氏の筆になるものをみると八世雷蔵となっているし、調べによっても八代目が正しい)。初舞台の大阪歌舞伎座にてその披露を行なった雷蔵は、歌舞伎役者としての道を広げた。

昭和29年6月、大映に入社。8月に封切られた『花の白虎隊』によって映画界への第一歩を踏み出したのである。デビュー作『花の白虎隊』封切を機として、雷蔵後援会が結成され、その機関紙「よし哉」が創刊された。

昭和29年より昭和33年までに、51本の多き作品に出演した雷蔵は、その都市の暮、『炎上』『弁天小僧』などの演技で、ブルーリボン賞、キネマ旬報賞、NHK映画賞、それぞれの主演男優賞を独占している。

昭和37年3月27日、『破戒』を撮り終えた雷蔵は、永田社長の養女遠田雅子(恭子)と結婚。昭和38年1月、日生劇場の武智鉄二演出による『勧進帳』『一の谷物語』の寿大歌舞伎に出演。この年5月に、長女を得た雷蔵は、彼の当たり役、眠狂四郎シリーズの第一歩を踏み出す。昭和39年、『剣』で京都市民映画祭主演男優賞を受賞。翌年8月には、大阪新歌舞伎座で養父寿海と共演している。昭和42年、『華岡清洲の妻』『ある殺し屋』でキネマ旬報賞、NHK映画賞び主演男優賞を受賞。

昭和43年、当時の新劇をはじめとする商業演劇のあり方に不満をもった雷蔵は「今まで見たこともない新しい演劇をこしらえてみたい」「この劇団は既成の演劇への挑戦であり、また俳優としての私が、私自身に挑戦する試みでもある」とのことから、実験的劇団“テアトロ鏑矢”が産声をあげた。合戦で最初に鬨の声がわりに射る矢が鏑矢であるのにちなんで、この名がつけられた。そして、『海の火焔樹』を企画、自らプロデュースをも兼ねて、7月に京都会館第二ホールで旗上げ公演するべく、6月初めより本読みに入ったが「腹具合がちょっと変だ」と医者通いが始まった。この頃より癌が正体を現わし始めていたのだ。準備はすべて整い、幕を開けるばかりになっていたが、雷蔵の病のため、やむなく挫折せざるを得なかった。この月、手術を受け入院した。『眠狂四郎人肌蜘蛛』を撮り終えてのことである。

そして9月には、大映スター・パレードの舞台上より、スクリーンへのカムバックと今後の抱負を明るい声で述べていた。しかし「娘を結婚させるなら吉哉のような人・・・」と、雅子夫人をしていわしめているほど、家庭と仕事とを完全なまでに両立させた雷蔵も、無理を押しての仕事がたたったのか、円月殺法も直腸癌(肝臓癌ともいわれている)という病魔を斬り倒すことはできなかった。

昭和44年、『眠狂四郎悪女狩り』その後の『博徒一代血祭り不動』を最後に、映画生活16年の間に154本という多くの作品を残し、155本目の姿を銀幕に見せることなく、7月17日折からの祇園祭りの祭囃子をBGMとして、ただ独り、37歳の若さで、再び帰ることのない永い永い旅にと発っていった。

葬儀は雷鳴轟く雨の中、各界数千の人びとによって盛大に行なわれた。8年たった今日、太田吉哉から大雲院雷蔵法眼居士とその名が変わりはしたが、池上本門寺の国宝五重之塔の近くで、線香の煙りと花束に囲まれながら、安らかに眠っている。

浄念合掌

(1977年発売のLP「眠狂四郎」解説から)