七月十七日のこと

もう何年も前のことです。私が京都に住んでいた頃、雷蔵くんと一緒に祇園祭の見物に行ったことがあります。

私たちは四条堺町に陣取り鉾を待ちました。祇園囃子にのせて悠々と進む鉾の姿は壮観でした。

やがて何年かの歳月は流れ、一昨年私は独立して中村プロを設立しました。第一作に祇園祭を選び七月十七日、準備万端整えて祇園祭鉾巡幸の実写からクランクインしました。

夜雷蔵くんからお祝いの電話があり、以前一緒に見物した所にカメラを据えたことも伝えました。苦しい撮影の連続でしたが皆さまの暖かい友情に助けられ無事完成しました。

雷蔵くんからもたびたび激励の電話をいただき、ある時は大映から秘かに仲間たちをロケ現場に送ってくれたりしました。

それから半年、鴨川にコンチキチンの稽古囃子が流れる頃、私は大映出演の機を得ました。

永田社長より「雷蔵くんが病気で休んでいるから替りに一発頼む」とのこと。私は快く引き受け京都入りしました。七月十七日山鉾巡幸の日でした。

この日私のプロにおいて初めてカメラの回った日であり、私の命日でもあります(映画の主人公笹屋新吉の最期の日)。

四条通りに整列した山鉾からあの懐しい囃子がここを先途と競い合っていました。巡幸を前にして私は落ち着きませんでした。私の心はすでに長刀鉾の上の笹屋新吉になっていました。

高潮する囃子、軋む車輪。私はなぜか胸騒ぎがして息が苦しかった。突然胸部に非常な激痛を覚えました。それは新吉の胸に突き立つ矢ではありませんでした。大映の人が見え、雷蔵くんの亡くなられた報せを受けました。

運命とはいえ、私(新吉)の命日と同じ七月十七日。数年前の同じ日、同じ場所でこのような悲しい報せに接しようとは・・・・。

遠ざかる鉾のそびえ立つ鉾柱は、天国への階段のようであり、物静かで優しかった雷蔵くんがほほえみながら私(新吉)と一緒に昇って行くように思いました。

陽を受けてきらきら光る小さな長刀に私はいつまでも合掌していました。

七月十七日。この日こそ私の生涯において最も忘れることのできない日となり、これからも祇園囃子が聞こえる頃、私はきっと京都へくることでしょう。